SQUR

ローマの休日 4K レストア版のSQURのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

中盤辺りからもうちょっと泣きながら観ていたんだけど、最後の15分くらいは映画館にも関わらず嗚咽をもらしてしまうほどガチ泣きしてしまった。

お忍びの王族とイケメンな庶民の恋愛映画なのかなあといった漠然としたイメージを持っていたんだけど、いわゆる「惚れた腫れたの恋愛」といったものではないと思う。
だいたい、自由がないところにそういった「恋愛」は発生しえないのではないだろうか。
この映画の中で描かれている"愛"や"恋愛感情"は、人間が誰しも置かれる「ままならない」環境の中で1人で生きる孤独に対する慈しみや慰めのような感情であると感じた。
アン王女がのちに自分で言っているように人間の「友情」を描いた映画といったほうが、恋愛映画と呼ぶよりしっくりくる。男と女というステレオタイプが最初にあるから、その表現の仕方はどうしても「恋愛」に似るけれども、「友情」のほうがしっくりくる。

で、恋愛映画として観ると、結構イライラする。というのも、ジョーという男がかなり悪い大人なのだ。いきなり身体を求めたりはしないし、なんだかんだ安全な寝所を提供したりするので最低限の紳士な態度はあるのだけど、それでも1人で外の世界に飛び出したアン王女に対しての「嘘」をついて、つまり「騙して」、自分の飯の種にしようとする。
よく見かけるバイクに2人で乗ってるシーンや、真実の口のシーンとかも、2人の間にまったく絆がないとまでは言わないけれど、ジョーのほうは自分の真意を隠したままなので人間と人間の交流とは呼べない。アン王女のほうも自分の身分を偽ってはいるけれど、「一緒に楽しみたい」という相手との関係において求めているものの部分では偽ってないのでやっぱり全然対等ではない。鑑賞中「ああ、どうか悪い大人に騙されないでくれ」と何度も思う。また、ジョーがなかなか王女に自分の真意を打ち明けようとしない、というか打ち明けていいと思えるほど情がわかず(王族という身分に対して距離を感じているせいもあるのだろうけど)観ていてちょっとイライラして、有名なシーンも全然ロマンチックではない。
ただ、ジョーがいくら嘘つきでもアン王女(もといアーニャ)は純粋に世界を楽しんでいるので、今までできなかった冒険をして喜んでいるとこっちも嬉しくなって、観てる方も泣いてしまいそうになる。それにときどき「この楽しい自由な世界にも永遠にはいられないんだ」って思い出させるようなできごともあったりして、それを観ているとこっちも悲しくなりやっぱり泣いてしまう。

ジョーが、ほんとうにアーニャ=アン王女のことを人間扱いしたのがどのタイミングなのか、というのは解釈の余地があるところかもしれないけど、おそらく2人で夜の河を泳いでる秘密警察から逃げ出すシーンで、危険をともにしたからなのかはわからないけど、だいたいこのタイミングでジョーはアン王女自身の気持ちに繋がりたいと思うようになったのだろうと思う。もっと早くに気づけるタイミングたくさんあっただろ!と思うが、おそらく彼もニューヨークの本社から左遷されてそこまでいい待遇の職場でもないところになって家賃を滞納するくらいには生活も苦しかったようで後がなかったというところも大きいのだろう。資本主義って怖いな。そこで最後に別れる車中のシーンで、ジョーはおそらくアン王女に「ずっと君がアン王女だって知ってたし、それで金儲けするつもりだったんだ」と言って謝ろうとしたのだろうと思う。が、ここからはこの映画の一番素敵な部分で、2人でひしと抱き合ったところでアン王女はそれを先回りするように「何も言わないで」て言って言葉を塞いでしまう。それは言葉がないほうが伝わるだろうということだったのだろうと思うし、映画を観ている方としてもそうやって黙って抱きしめているだけのほうが、どんなに彼がアーニャに謝りたくてアーニャを大切にしたいと思っているかが伝わってくる。そして、そこからはもう台詞を介さない身体的感情表現が雪崩のように続く。ラストの記者会見で、2人が他の人に伝わらないようにアイコンタクトや公の言葉だけで友情と信頼を確認し合って、本当の意味でそこでつながることができたシーンなんだけど、そのときの表情をカメラがすごく丁寧に映していて、直接的な言葉がなくてもたくさんのことが伝わってくる。私も泣いてしまったし、場内から他の人の嗚咽もきこえてくる。
言葉で表現することが一番いい映画もあるけれど、この2人にとっては言葉を使わないことのほうが一番本当だったんだと思う。

いい映画だった。
何百年経ってもいい映画であり続けると思う。
SQUR

SQUR