まぬままおま

瞬きまでのまぬままおまのレビュー・感想・評価

瞬きまで(2022年製作の映画)
3.5
家族の物語は語られなければ存在しない。
そんなことを監督が舞台挨拶(2023/8/9)で言っていたような気がするが、確かにその通りだと思う。

自らの家族の話を他者にするとき、〈私〉と家族の関係を明示しながら出来事を語るだろう。「私には8歳になる娘がいて、生まれながらの病で入院しています。この前、手術をしたのですが失敗して意識不明な状態になったんです」といったように。
そんな物語がマンションの一室という1シチュエーションで話者を変えながら語られ、それを定点の長回しで記録するのである。

ただカメラのポジションやフォーカスは、必ずしも話者の顔に置かれたり、送られはしない。それはどういうことだろう。家族のことを語ろうとして泣き出すSF作家を正面ではなく後ろ姿で記録するカメラとは。

語り手が家族を物語るとき、その物語は語り手の専有物になる。この時、注意しなければならないのは物語が必ずしも事実であるとは限らないということである。むしろ語り手にとって都合がいいように、フィクションが機能していると考えた方がいいはずだ。それは夜に警官らが語る家族の物語で明らかである。彼らは犯人をみつけたい、相手の真相を知りたいといった都合のために、家族のことを騙り相手のリアクションを伺うのである。
しかしこの事実が分かるのも映画が展開してからのことである。定点で記録される彼らの家族の話はリテラルにみれば事実のようにみえてしまう。それではなぜ私たちは家族を物語ろうとするのだろうか。語られる家族のことは嘘だと決めつければいいのだろうか。ではなぜその話をきいて、感情を揺さぶられるのだろう。

本作で重要なアクションと言えば、窃視と盗聴である。窃視は向かいのマンションの一室を覗くために望遠鏡が登場することで描かれる。また警官らの話が登場人物に分かったり、SF作家を担当する編集者が作家の家族の話を聴けるのも盗聴のためである。
家族の物語は語られなければ存在しない。しかしその語りは、窃視や盗聴によってしか真実を帯びない。そのように思えるのである。それは犯罪行為を通してしか真実は帯びないというわけではない。そうではなく〈私〉が他者に合目的によって語る家族の物語を、第三者の「彼」が合目的によって窃視・盗聴する中で、予想打にしなかった語りが行われた時、真実が現れるのではないか。そう思うのである。

それも編集者の「彼」が作家の家族の話で涙するシーンから見て取れる。まだ結婚もしていない若い「彼」が、興味本位で盗聴した中で、作家から予想打にしなかった家族の話を聴くとき、その話が子どもがなかなか帰ってこず、しわしわの四つ葉のクローバーを握りしめた些細な物語であっても、その物語に真実を見いだし心の琴線に触れたのではないだろうか。
SF作家の家族の物語は事実がフィクションか分からない。それを判定することもできない。しかし彼女の物語の中には、事実とフィクションが混在した先に心を揺さぶる真実が「瞬いている」のである。

そう考えると定点で全く動かないカメラとは窃視としてのカメラなのかもしれない。望遠鏡で向かいのマンションを覗いている時、私たちは彼らを覗いているのだ。そして私たちの心を瞬く語りが行われた時、真実を目撃しているのだ。