ゆうすけ

ほつれるのゆうすけのレビュー・感想・評価

ほつれる(2023年製作の映画)
3.7
針と糸があればすぐに治せるのだろうか。
祖母の技術を母が学び、機械では作り出せない継ぎ目を重ね、新たな価値と美しい存在を交互に行き来する。
子は、気付かずに今日も、袖に腕を通し、振り向きもせずに、家を出る。
そんな日に限って、雨は降るのだろうか。

未知で無垢な誰のものでもない愛の形を、人間が自らの手で縛ってしまった。ひとりに対してひとりが割り当てられ、継続という育みを期待した。
そんな愛は、青にならない交差点にずっと立っているようなもの。一歩を踏み出したら、車にはねられる。いや、クラクションで引き返す人もいるだろう。でも、何かに追われ、逃げたい今日が、赤色を無意識に盲目にし、渡らせようとする。
あなたが立っているその交差点がかかる道路は、渋谷のスクランブル交差点か。それとも、田舎の山道にポツンとある、カエルも渡る交差点だろうか。
道の幅と車の数が、躊躇と決断を分け与える。教室の扉を何度も開閉して面接の練習をしている友達を見ているようだ。

今回の作品は、青にならない交差点を何度も渡り切った3人と、一人の女性の物語である。
旦那の優しさとキャリアに甘える妻は、必要な愛を求めて不貞を繰り返す。不貞という言葉も好きではない。
そして、学生の頃から長年の愛を育んだ奥さんがいる夫は、愛を形に、甘える妻にリングをプレゼントする。指を通す心地よさは、純愛な気持ちでは感じることのできない、不屈の精神を生み出し、不貞というフリガナは、フテイではなくなる。その時の表情は、うれしくもあり、切なくもあり、叶えたくない夢を抱いているようだ。
この2人の会話の間には、測りきれない距離感があり、他人からみれば違和感が漂う。それなのにも拘わらず、非日常なこの毎秒が2人には幸せでたまらない。いや、見方によっては日常なのかもしれない。それが、人目の気にするオープンテラスのおしゃれなカフェでランチをともにする所以だろう。
互いのパートナーを傷つける訳でもない悪口と、互いの家庭を気遣う素振りで罪悪感を紛らわす仕草には、人によっては気分が悪くなるかもしれない。それくらいこの2人のシーンはスパイスが効きすぎていた気がする。
本当の旦那との関係性に、嫌気が差した訳でもなく、朝の寝顔と意味のない会話を遠ざけたい訳ではない。プレゼントの袋の開け方から旦那の性格が滲みだし、今まで2人の関係を包み込んでいたのがよくわかる。明日、2人の記憶がなくなるのでれば泣き崩れる、それくらいの愛もそこにはしっかり存在する。
それは、本当の旦那との恋も、青にならない交差点を渡りきった関係の上に成り立っていたからである。しかも、あの袋の開け方の旦那も、この行きかう車をすり抜けてきたのだから。このスリルと心地よさは、中毒のように欲しくなるのは当たり前だ。

ただ、この中毒によって、辛く悲しく傷付く形もある。一人の女性が少し見せた、夫を亡くした背中には、枯れ切ったはずの少量の涙が、皮肉にも美しく表現されていた。

糸は、複数の繊維から紡がれている。最後のシーンのように、ほつれると全ての繊維がそっぽを向く。いざ、集めようとするにはとても時間がかかる。むしろ、集まることはもう二度とないかもしれない。
その修復には、都度、母のような技術と繊細さが必要である。それは、愛を持ち、持たれた関係性でしか治せないのである。
この作品において、紡いでくれる本当の母のような存在は、誰にとっての誰なのか。このようになるのなら、紡ぎ方さえ自分で覚えれば良いのだが、それはできないみたいだ。
愛とは、人に教えてもらうしか分からないのだから―
ゆうすけ

ゆうすけ