アランスミシー

哀れなるものたちのアランスミシーのレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
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逆転のトライアングル同様、大衆向けにする為にテーマに必要なモチーフと舞台が断片的にしか選択されずに描かれてしまった事が残念。
もっと包括的(網羅的)に、そしてより的確な寓喩としてのモチーフ選択ができる余地をとても感じてしまった。

ただこの俺たちがとっくに通って来た道を一般大衆が辿るきっかけとなる事は重要だし、その第一弾としてこの映画が流行ってくれた事が嬉しい


ラスボスとはそれまでのストーリー上の表面的強さ&内面的(テーマ的)深みの両方において総括的であり、それまでの敵を複線化してしまう存在であるはずなのに、この唐突に出て来た前夫は何なんだ?
取ってつけた感ありすぎて…


この映画のテーマをフェミニズムだと勘違いしてる人間多いけど、この映画の主人公は人類の生み出した哀れな支配欲の被害者としての男性&女性の両者だからな?
俺は徹底して平等主義者なので、男は〜とか女は〜とか言う偏った思想を徹底的に批判して行きます。お互いの歩み寄りとそもそも自分の性別に拘る事からの解放を目指して。

【テーマ】安全志向→冒険志向
ニーチェの超人、永劫回帰、独裁の復活
親ガチャ、悲観vs楽観
《類似作品》
2001年宇宙の旅
《劇中歌》
ツァラストラはかく語りき

悲観=生まれて以降のトラウマ的経験によって生じてしまう思考→行末は抵抗ではなく自殺
楽観=混じり気のない純粋無垢な冒険思考→行末は独立の為の権力への徹底的抵抗
赤子=まだ人生を一切経験していない好奇心に溢れた絶対的楽観主義者

【ゴッドの思惑】一見支配的に見えるが実は天才外科医かつサイコパスである父親の支配によって一切の慈愛を受けずただの実験体として育てられた最も哀しき被害者であり、そこへある日似たような境遇で最悪の支配を受けた結果絶望し赤子諸共心中したヴィクトリアを見て同情する。どうにか自分と彼女とその子供の人生を肯定する方法はないかと苦渋の葛藤をした結果死後間もない彼女に赤子の脳を移植する決断をする。
父親の「慈愛を持って手術しなさい」という言葉から父にも慈愛があったとどうしても楽観的に捉えたいゴッドがこの世の何よりも可哀想に思えて抱きしめてあげたくなる。

つまり彼の言う実験とは、普通ならば絶望せざるを得ない地獄のような人生でも、究極体の楽観的思考を持てば肯定できる筈であると証明する為の実験(自人生を肯定する唯一残された選択肢)という意味であり、それは当事者しか想像し得ない究極の人類(自己&他者)愛だと最後に分かる。
その証拠として彼はベラが下界に触れて情報を得る事による危険から保護するべく彼女を安全柵で囲うも、同時に親としての愛から「可愛い子には旅をさせる」決断をする。



以下↓支配による被害者①〜⑩
《ゴッド》成長史上主義者の代表的存在であった天才外科医の父による支配の被害者
《マックス(婚約者)》キリスト教支配による被害者だが、最終的にはキリストレベルの寛容さを身につけ、全ての生命に対して慈愛を持って接する存在と化す。
《ダンカン》自身の支配欲という欲求に執われ欲望の囚人と化した被害者
《アルフィー(ベラの前夫)》
アイルランドから始まり、アフリカを超え果てにはインドシナにまで及ぶ世界最大の植民地支配という歴史を背負う悪名高きイギリス王位の寓喩的キャラクター。
先祖代々継承的に受けた父王による教育支配の被害者。
《転生前のベラ(ヴィクトリア)》
歴史上、女性支配者の最も象徴的存在であるヴィクトリア女王の名を冠したキャラクターだが、自分の出産が繰り返される独裁者の生成に加担する未来に絶望し川で飛び降り自殺する。
《ベラ》ゴッドの一見非情に見える究極的な愛の下ベラを下界の情報接触による危険から守る為に儲けられた壁という支配の被害者としてスタートするが、そんな壁を難なく突破し、以降遭遇するあらゆる支配者から受ける支配を全て突き破る究極体の楽観主義キャラクター
《船の黒人》奴隷支配と貧困という過去のトラウマ(記憶)以降生まれてしまった悲観に支配された被害者。
→皮肉屋として老婆から紹介を受け、途中自分が受けた奴隷支配の憂さ晴らしとして同じマイノリティ(女性&知的障害)であるベラに意地悪をしてしまう。これは弱者が陥る足の引っ張りあいという余りにも悲しい実体の症例。
《船の老婆》未だ残る自分の性欲を隠し、本能ではなく理性によって満たされてるフリをして強がるプライドに支配された被害者
《娼館の老婆》貧困を脱するには男の下僕になるしかないという悲観に支配された被害者
《娼館の同僚》自分がマイノリティである事をポジティブに捉える為にそれを肯定してくれる社会主義に心酔し、社会主義の名の下に行われる事であれば何でも無償で協力してしまうプロパガンダによる支配の被害者