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哀れなるものたちのkoのネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

刺激を受けた!
映像はモノクロ→巧みな色使いで構図も絵画的、衣装も素敵。セットや小道具も奇妙!時代背景が掴めない混沌としたかんじがなんともよかった。

エマストーンの怪演がとにかく圧巻。不穏で気味の悪い無邪気さが、好奇心と尊厳を併せもつ眼差しに変わり、野生的かつ理性的。後半には聡明な立ち振る舞いと物言いとなり心強さすら感じる。数年に一度みれるかみれないかの次元だった!

この映画は世界を改善したいんだなって、後世に残したいんだなっておもった。なのにベラは改善を諦めてしまうの?というのが劇場でたときの感想。
ベラは反抗し、学び、解放され、許し、憎むべき相手をヤギに変えた???表面的な意味ではなくて、主題が揺らぐほどの驚きの結末。
解せない。今作は果たしてフェミニズム映画として完結しているのだろうか?

大人が構成する社会のなかで5歳児の脳になって学びを得る。性的快楽、砂糖、暴力、学習の喜び、この世の不条理(救えない貧困層、最適じゃないシステムのなかで行うビジネス)、、、、。
観客ははじめて外に出たベラと共に、社会の在り方 システムをまた一から知っていく。

頑なに怒らない社会主義映画だったなぁ。
どれも事実としてただ確認していく。その上でそうだよねって確かめ合う。だめなんだなぁってことは受け入れて、できる限りの改善を試みる。
抑圧には反抗し、自ら飛び出して、学びを得ることがcolorful🌈なあなたの世界と人生を形作る。
ベラが一人一人の声をきいて学びを高めたのは、5歳児の好奇心ではなく社会を知ることへの真っ当な探究心だった。
私たちはそれを忘れていないだろうか。
よりよい社会を志向せず、自分の脳内で形作ったせまい世界の中で息をしていないだろうか。
大人として探究心を持たなくては。学ぶ!

まず男性が身体大人の女性に(その胎児だった)5歳児の脳みそを移植して、育てるというのがもう、ね。やりすぎなほど人権侵害の搾取描写。
彼女は女性として搾取され、なんとか自由を手にし、賢く育ち、、、過去のそれを搾取と言わない?!なんと。
私は目を瞑ってフェミニズムの映画だと言おうとしたけど、やっぱりここがキーポイントだなぁと。本作はもっとエティックな眼差しで改善を訴える。
だからこそ、フェミニズムの視点からしたら納得できないことばかりだったのではないだろうか?

ラストカット。学びによって自由と、次のステージの本質的な喜び(イデアに向かいそう)を手にしたベラは本を手に微笑む。象徴的だ。ヤギの男がいなければ。やはりこの違和感が意図的だと思うほうが自然に解釈できる。
ベラは「改善する」と言っておきながら、本質的な改善を放棄した。諦めたから、あの場は狂気に満ちている。
私はそれが残念でたまらなかったけど。

本作のフェミニズム的な象徴は、セックスと本。性的欲求と学習欲求に積極的だった。どちらも女性にとっては抑圧されていた対象。
性の解放であり、尊厳の獲得。

映画冒頭、障がい行動のような明らかにおかしな様子のベラをみてマックスは目を輝かせて「stunning. 」と言った。彼女の美貌に対して。加えて彼は彼女の前では確実に支配的立場に立てることも察する。
脳が5歳とわかっていながらベラの美貌と積極的な態度を前に、簡単に所有できる5歳児と婚姻・性交しようとしたマックス。
彼女が学を得たあと、再度彼と婚約したのが意味不明だった。「自分を愛しかつ絶対に縛りつけない寛容な男性を、女性側が選んだ」構図としては女性優位だったけど。5歳の自分にしようとしたことを知っているんだよ。
マックスは芯から善良な男性なんかではない。しかし彼は自分の特権性と支配欲に気づいて(もう支配できそうもない大人ベラの前で)態度を改め、ベラに屈するようになった。
ベラは過去の罪を問わず、目の前の改善を受け入れる。
その姿勢こそ、社会全体の改善に必要だということじゃないかなぁとおもった。

「あの愛嬌のある話し方はどうした」と言ってベラの本を海に投げ捨てたダンカン。それを見た老女はベラに新たな本を手渡す!お〜!女性を幼稚な所有物にしようとする男性と、女性から学びを奪わせない老女⚔️
しかしこのシーン、劇場で笑いが起こっていたんだよね。説明的でないから一定の範囲にしか伝わらなかった。
内容の重厚さと、芸術性の高さ、軽やかで冷静沈着であることが同居している。
この映画は怒ってない。ただ見つめてる。やはり単にフェミニズム映画とは言い切れそうにない。しかしフェミニズム的な視点が沢山あることには変わりない。以下。

ベラが一心不乱に踊り出したとき、ラファロ演じるダンカンが勝手にエスコートしはじめる。好きにはしゃいで踊ってはいけない、男性に身体をあずけなければならなかったのだ。
その後ベラに向かっておまえは口を慎め、3つの言葉しか言うな「素敵ね」「このパイ生地がサクサクね」「〜」と。
あと娼婦になったときダンカンが激怒したのは彼女を自分の所有物のようにおもっていたから。“所有”というセリフがハッキリあった。

ヴィクトリア(ベラ)を自分の宮殿から出さずに閉じ込めていた男性も象徴的。絶対的な特権を持つ存在として男性が描かれている。
ヴィクトリアはどんな人だったのだろう。はじめは自由を奪われた可哀想な女性だとおもった。でもここでは特権階級で、彼女を慕わない使用人がいて、ぜんぜん親切じゃなかったかも。内なる炎どころかすごく荒ぶっていたかも。妊婦の状態で自殺したヴィクトリアは、単なる哀れな被害者のような人物じゃなかったと想像する。

ベラは学ぶ。金持ちの老女からも、娼婦の老女からも同じように社会を教えられてどちらの話も吸収する。

ハリーには、この世の(最大ともいえる)不条理を教えられる。貧困層の赤ちゃんが目の前で息を引き取るが、彼女にはなにもできない。なにも、できない。
ベラは初めて悲しみに打ちひしがれる。
ここがあまりにもショッキングで記憶に焼きついてる。このことばかり考えてしまう。

ホワイトフェミニズムについても検討しなくちゃいけませんね。


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この世界のだれもが哀れなるものたちだし、どれもpoor thingsなのか。
支配される側だったベラは学びを得たことで自由を手にするけど、いま考えるとやっぱりフェミニズムはテーマの一側面でしかなくて、最終的に言いたいことは不条理な世の中なのかなと。
学びが自由とより良い社会を築ける!でも生きていくためにはこうするしかない!っていうのがずっと交錯してる映画だったな〜とおもう。娼婦のシステムとか。最後ががっかりだったのもそう考えたらちょっと納得できたかも。
でもベラは貧困層にせめてものお金渡そうとしたし、娼婦のときも、改善を諦めたことはなかった。
でも将軍はベラにとって初めて明確に自由を奪う人で、他の人とちがって改善がみられない。
よりよい社会を築くとき過去の罪は問わないが、今後も改善されない者は切り捨てるのか?それか銃を持つ側に立ったら誰しも支配的立場で横暴にーーいや、そんなことが言いたいはずない。不条理にしろ。
わかりにくい結末だ。ベラは真っ当に社会の希望であるべきだったんじゃないだろうか。

監督のほかの作品との関連も確認したい。


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原作小説からの改変、フランケンシュタインなどについて↓↓
https://safarilounge.jp/online/culture/detail.php?id=15265&p=1

戸田真琴さんによる素晴らしい記事↓↓
https://hanako.tokyo/sustainable/416940/
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