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哀れなるものたちのmのネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます


観終わった後の感情、何かを見たときと一緒だと思ったら、ララランド!。

エマストーン以外に共通点が無さそうな、もはや正反対な作品なんだけれど、個人的に作品の構造が全く同じだと思った。

まずエマストーンを起用してる時点で二つの作品はハリウッド並みの商業映画に違いない。観客動員数とか、話題性とかも酷似していると思う。(ララランドの方が強いのはわかりやすい物語と明るさ、エンタメ性だろう。)

ララランドでいうエマストーンのオーディションの歌、そして物語の結末は監督の意志、創造者としての葛藤だった。
商業と自分自身の距離。そしてララランドっていう圧倒的エンタメが出来上がったと、ある意味赤裸々に監督の心境をエマストーンに言わせている。

今作品の船上シーン、黒人・老婆との哲学的会話や、黒人青年の嘆きもまた創造者の葛藤だ。彼は、道を切り開くにはまず皆に受け入れられなければならない的なことを言ったが、
この言葉を得た上で作品を観るとまるきり視点が変わる。この視点をこちらに得させた点はララランドとそっくりで、それぞれに抱く感想も監督の方向性も違うんだけど、
商業映画に監督の意志をこうも強く植え付けている作品という点で二つは類似している。

ララランドが陽であるのに対しpoor thingsはかなりダークな陰で、残虐性もあるものの、大ヒットしているのは時代性か?
この作品が今の人類に受け入れられるのは、あきらかにフェミニズムの台頭があるからだ。監督はフェミニズムベースに物語を捻じ曲げた(言い方が悪いが)。この気配を感じはじめてから、じょじょに作品から心が離れていったな。

物語の話に変わると、正直自分は最初の白黒シーンまでが好きだった。ベラが家を出てからラストまでは好きになれない。
(フェミニズムの波に乗っかった監督だが、大人の女はそう扱えても、少女性だけは美を保持していたっていうのは、どう考えても男そのもので、フェミニズムと対極なんだよね。男女対等とかいうなら少女だって男の憧れる美も神秘も内蔵できないはずなのにナ。矛盾)
「自分の体は自分のものだ。君の好きにしたらいい」って爽やかに言い切るけど、あれって完全に中絶デモの言葉とシンクロしすぎている。
怪物として生まれたベラの抱えるべき苦痛と孤独、そして歪んだ美。これが彼女の宿命だと思ったのに、家を出てからどんどんフェミニズムに移行してゆく。しまいには男の脳みそを羊に変えるんだから。笑
なんでこんなダークアート系の、大衆受けし無さそうなものがララランドみたいに話題になったかって、このフェミニズム性がなければ受け入れられなかったし、お金も集まらなかったのかなと。

ベラの裸はうつくしかったが、エマストーンの裸はうつくしくなかった。つまり少女時代と、以降だ。
女の肉体と男の筋肉が対等に並べられているのは意図してだろう。その意図は制作側からだけでなく、ベラ自身からも発している。
少女時代に抱えていた魂の矛盾を、彼女は完全に放棄する。そして大人の女になる。けれど彼女は人間ではなく怪物なのだ。
本当に物語の意志で、彼女はこうなったのだろうか?

ベラは自分を生み出した男と、自分を破壊した男へ深い慈愛と憎しみを持つ。
これもまたフェミニズムに格好の設定。
本来ならばとても良い世界との矛盾で、(生命を生み出すのは母であるのに対し父)この世の真理らしきものに近づけそうなポイントなのに、
世界を知りたいって言いながら結局ベラは男への復讐に走ってしまう。元旦那の話くらいからはもう完全にベラへの興味が無くなった。人間以下の怪物が、人間以上になって世界を生きてゆくのかと冒頭で勝手に期待していたが、ただの人間の女になってしまった。

そして題名がPOOR THINGS、庭に集まったのは確かに哀れな、人間じゃないものたち。
人間に打ち勝った、勝利者のようなベラの微笑みで終わるけど、全然人間に負けたよね。
男の脳みそを羊に変えることが勝利だと思う思想が哀れな怪物だっていうことにもとれるが、いくら逆張りしても結局、怪物<人間で、ベラ<女になってしまっているんだな。
なんだ、くどくどと怪物を使って人間賞賛していたのか?それって救いがない。

道を切り開くにはまず受けいられなくてはならないっていうけど、
切り開くために捻じ曲げたもので受け入れられてしまったら開ける道は限られてしまう。
黒人の青年は怪物のベラを見て希望を感じたんだと思う。
現代の芸術ないし商業性の波と力に、ここまでフェミニズムががっつり一枚噛むようになったのかって、こっちは絶望だ。

芸術性が大衆に受け入れられるにはフェミニズムが手っ取り早いって豪語してるような作品。女性監督がちやほやされるのに打ち勝つには男性監督もフェミニズムに走らないといけないって、なんか全部阿呆らしい。

勝手に比較してるけど、アート性とかフル無視してるララランドの方がよっぽど潔いよなメインストリームはって思ってしまったな。

男って理性的に割り切って、感情的にならずに創作できる人が多いが(とくに映画監督)
それだからフェミニズム映画なんて思ってもない嘘をつきながら自分の思想もいれるなんてことができてしまったんだよね。
けどそれって、切実にフェミニズムを必要として訴えている人(女)に失礼なことじゃないか?
これはフェミニズムに限らずあらゆる思想に対して当てはまるが。
男がフェミニズム映画を作るようになったこの時代がpoor things.これは監督の意図か(?)
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