デッカード

哀れなるものたちのデッカードのネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

※また長くなりました。
2,900字

読んでいただけたら、うれしいです。
また解釈が違ってたら、ごめんなさい。




胎児の脳を移植され胎児の経験値しかない、死から生還した「人造人間」の女性・ベラの旅を描く。

独特の様式美と音楽、登場人物など、不思議な世界観の中で、人にとっての「人格形成とは?」を問いかける物語が繰り広げられます。

様式美を言うなら、ベラがダンカンと旅する世界はすべての描写が夢か幻のようで、そこには常に不安定な感覚が付きまといます。
ベラのファッションがその不安定さを象徴していて、上半身はゴシック調とも言えるほどボリュームがありながらスカートが短すぎる丈なのはアンバランスな描写としてわかりやすい。
客船をはじめとしたホテルや街のセットなどは『グランド・ブダペスト・ホテル』のようなおもちゃ箱の中のような世界観を連想させます。
現れる人物たちもどこかしらリアリティがないように見えますが、ベラという自我が形成されていない女性にいろいろな示唆を与えていくことは興味深く思いました。

人造人間のベラを作り上げた科学者・ゴッドは、自分自身も顔中切り刻まれた傷痕だらけで他人からは怖がられています。
また、ベラの他にも鳥と犬をつなぎ合わせた生き物を作っていたりと当初は生命をもてあそぶ神をも恐れぬマッドサイエンティスト、モンスターに思えます。

またベラはというと、当初から性衝動に貪欲で、自慰行為に没頭したりダンカンという行きずりと言っていい男性と躊躇なく関係を持ちます。

そもそもダンカンと旅に出たきっかけもそんなベラの持つ人間として根源的な欲求である性欲に突き動かされたからなのですが、旅の中でベラは今まで知らなかった音楽の美しさや男女の諍いなどを見て自我を形成していきます。
音楽が持つ人間の土俗的根源的渇望が短い描写ながら描かれていて印象的でした。
また、アレクサンドリアで目にする残酷な現実がベラに悲しみをもたらし、ベラが他者に対しての哀れみや慈愛、そして母性をも自覚させていく展開は考えさせられました。

そして性に貪欲で躊躇のないベラは、成り行きでパリの娼館で何のためらいもなく働き始めますが、これには正直少しですが複雑な気持ちになりました。
世界中で本意不本意はともかくとして、決して差別的な思いからではないのですが、日本やおそらく諸外国でも歴史的には(あるいは現代でも?)娼館が持つ「女性の悲しみの物語」などがあることを考えると、ベラの屈託のなさは一つ間違えるととても無神経な描写に見えてしまうのではないか、と心配になりました。
しかし、娼館でベラがいろいろな男性の多様な性的欲求に触れて自我を形成していく過程が、実はジェンダー格差が激しく男性の性衝動が常に優先され女性の性は顧みられなかった歴史の逆説的表現だと思うと十分納得することができました。

女性の性衝動に対しては、宗教や思想、過去からの規範などもっともらしい既存の"常識"が振りかざされ、何よりジェンダー格差の側面から公言することすらはばかられていた世界各国の歴史があります。
ベラの娼館での描写は彼女のそんな既存の常識にとらわれない上でのベラという無垢な女性の「人格形成」という意味では重要なシーンのように思えました。
あわせて逆に言えるのは、このシーンでは女性が男性にとっては歴史的に性的には受け身の存在であり、またそれが現代でも、世界中のすべての社会でそうだとは言えないのですが、女性が積極的に性について語ることをタブー視する風潮が少なからずあったり、世界の国々を見渡すと女性たちの性に象徴される選択の自由度は意外と狭いことがうかがえます。
例えば…ですが、そんな女性側の選択が無視されてしまった結婚などは世界中見渡せばたくさんあり、女性が性的行為だけでなく様々な側面で自分の意思を無視されている事実も暗に描かれているのでは、と思いました。
一方先進国と言える国でも、現代の女性の性の自由を逆に利用し、あたかも女性に同意があったかのようなかたちで男性が性加害などを行った事実もありそれは許されることではないと思います。
『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』の加害者などはその代表的な事例だと思えます。

そして、そんな女性を性的な受け身の存在としてしか見ていなかった社会を象徴する娼館のシーンは、実は最後にベラが知る、自殺をはかる前の自分・ヴィクトリアという女性とその本当の伴侶アルフィーとの関係性を明らかにするためにどうしても必要な逸話だったことがはっきりしてきます。
自分の本当の伴侶が戦争で人を殺すことに何の躊躇もない軍人であり、かつ他者である執事やメイドに対して権力者として無慈悲で身勝手な人物であることは嫌悪感を持って描かれています。
また、さらに女性のことを自分の子を産むための道具としてしか見ていないという、昔の世界では当たり前だった"男"の典型であることがわかることは、自分の"女性としての性の自由"、ひいては女性であることを尊重するベラの対極の存在としてわかりやすいと思えます。

逆に当初見た目から異形としか思えなかった、科学を優先して生命をもてあそんでいるように思えグロテスクさを見せていたモンスターのゴッドのほうが、実は生命への根本的な慈愛を強く持っていることもわかってきます。
父親の科学への探求心ゆえに異形にされ、それでも生命の根源に触れようとしていたゴッドは確かにマッド・サイエンティストなのですが、生み出した生命であるベラに対しての愛情にあふれていましたし、そもそもベラを作り上げたのもヴィクトリアと胎児を死なせたくない、という人間と命に対する真摯な思いからだったことも察することができます。
ヴィクトリアも実はイヤな女性だったこともわかるのですが、あくまでベラは実は胎児であり、子として親の姿を知る、その上でヴィクトリアではなく「ベラ」としてアルフィーという女性蔑視者で他者への慈愛のカケラもない人物に天誅を下すという展開は、全編異様とも思える雰囲気に包まれた物語をしっかりとしたテーマでまとめ上げ、さらに納得のいく着地になっていてよかったと思いました。

この映画は、いまだにどこかしら残る女性蔑視の気配に対し「女性が自由意思で生きていいのだ」というメッセージを大きく取り上げながら、女性の受け身としてのあり方を"当たり前の常識"として押し付けている現実を、一人の女性の過剰なまでの性衝動の描写で逆説的に体現させ、また独特の世界観で観る人を惹きつける不思議な感覚ながらしっかりとした骨組みの作品に仕上げていると思います。

エマ・ストーンが美しさと無垢が混在するベラという女性を、これでもかと言えるほどの性への貪欲さで女性としての自我を形成していくいく姿を激しく演じ、『ラ・ラ・ランド』とは全く違った印象を持ちました。

一方ゴッド役を「他の俳優ではこんなゴシックホラーとしての風味は出せないだろう」と思わせるウィレム・デフォーの存在感は強く、顔芸などと言える演技を軽く超えていて、この映画をさらに強いインパクトのあるものにしています。
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