レインウォッチャー

春画先生のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

春画先生(2023年製作の映画)
3.5
春画研究をきっかけに倒錯の扉がひらく…そんな、谷崎潤一郎的世界を現代で描こうとするアナクロな志たるや良し、それに演者/衣装/舞台などの美術面も良し。
ただそれだけに、大きな2つの点で惜しいことが悔やまれる。

すなわち、①倒錯に至る過程 と、②倒錯の方向性 だ。

まず①について、弓子(北香那)が春画先生こと芳賀(内野聖陽)や春画の世界に引き込まれていく過程がもうすこし丁寧であれば嬉しかった。

弓子の「この先、面白いことなど何ひとつ起こらないだろうと感じていた…」というモノローグから始まる今作。しかし彼女がなぜそこまで人生に対して諦観しているのか、背景がよくわからないため、肝心の《春画》との結びつきが薄い。

もともと美術や性風俗史ナドに関心があったのか、何か強く抑圧された過去があるのか、あるいは単に芳賀の廃れイケおじぶりにミーハーな感じで惚れたのか。
きっかけはある程度なんでも良いと思うのだけれど、ここに納得できる設計があって初めて、それからの彼女の変化が際立つのではなかったろうか。

次に②について、性的に倒錯していくこと自体は良い、というかみんなどんどん倒錯していくべきと思うのだけれど、問題はその向かう先が《春画》とズレていることだ。

そもそも、(これは劇中で芳賀も触れているけれど)江戸期…つまり明治になって西欧文化の闖入に晒されるより以前の時代における性道徳は、ひとことで言うならとてもおおらかだった。

性道徳史に関するとってもオモシロ読み物『性表現規制の文化史』(※1)には、この時期の日本についてこんな記述がある。

ー「男性器や女性器について特にそれが穢れであるとか忌むべきものだという発想はありませんでした。」
ー「春画や黄表紙のような性表現がダメなのではなく(中略)奢侈や蕩尽に至るという懸念が禁圧の理由だったのです。」

要するに、春画で描かれる世界の美徳・ポリシーとは《オープン》であり、もっと言えば《明るい》ものだったはずなのだ。
しかし今作で弓子や芳賀たちが進んで行くのは、どちらかといえばメランコリックで後ろ暗い《陰》の方向である。これでは、その後明治になって西欧からの目を気にしだし、それまでの性道徳(や、その表象である春画)をこそこそと隠した政府と同じだ。

…と、ここまで文句ばかり書いたけれど、実はなんだかんだ好きといえる作品である。

芳賀が弓子を招き入れる古民家の暮らしはまさに昭和前半のデカダン貴族的な作家らしいイメージで、今となってはただのファンタジーだとしても(だからこそ)ちょっと憧れもおぼえ、美しさがあると思う。

また、当然この作風であれば弓子は脱ぐし喘ぎもするわけだけれど、ちゃんと男側=辻村(柄本佑)も脱いでいるのが良い。
ちゃんと、というのには、これ見よがしに筋肉バキバキ肌ツルツルだったりするわけでなかったりする、という意味も含んでおり、それでも堂々たるブリーフ(&Tバック)姿を見せている。ここにはまさに上述したような「春画らしさ」を感じたし、これぞ男女平等といわずして何と言おうか。

そしてロケーション、行ってみたくなるようなレトロで品のある場所が多く見つかった。
・品評会が行われるクラブ、kudan house
・弓子と辻崎が朝食を食べるカフェ、喫茶ロマン(『恋はいばら』とかでも見た窓)
・後半で弓子や芳賀たちが泊まっていた茅ヶ崎館
・回転ベッドがタイムマシン的なホテルファミー

…ぜんぶ関東だけれど(※2)。
まあ、なんであれ生きるのに「いつか」みたいな理由は多いほうが良いのである。弓子と春画のような出逢いが、どこに転がっているかもわからないから。

-----

あと今作の内野聖陽には歳の取り方について天啓をもらった気がする(見た目の話ですよ)

-----

※1:https://amzn.asia/d/8w7X9xa

※2:弓子が働く喫茶店、神保町のミロンガ・ヌオーバは行ったことがある。路地が映された瞬間、わおってなった。