くまちゃん

名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

3.9

このレビューはネタバレを含みます

ケネス・ブラナー監督、主演によるポアロ映画も三作目。回を追う事にポアロが板につき、あの独特な口髭も様になってきている。アルバート・フィニー、ピーター・ユスティノフ、デヴィッド・スーシェと並んで胸を張ってポアロ俳優と名乗っても差し支えなかろう。
前作のナイル殺人事件が豪華絢爛で煌びやかな画が多かったのに対し、今作は亡霊と冠したタイトルとポスターからも見て取れるように全体的にウエットで陰鬱としたダークな雰囲気が漂う。ドラマとしてもミステリーとしても見応えはあるが、その空気感に呑まれてしまったが最後、疲労が蓄積している者は迅速に睡魔の餌食となる。

理論派なポアロが今回挑むのは、水の都に巣食う亡霊の謎。それぞれの思惑が錯綜し、謎の上に謎が上塗りされていく。一つ一つ解き明かさねば真実へは辿り着けない。ポアロ自身が体験した少女の姿は霊体なのか、生身の人間なのか。

原作はアガサ・クリスティが晩年に発表した「ハロウィーン・パーティ」。映像化にあたり舞台や設定が大きく改変されホラーテイストが強くなっている。
クリスティといえばポアロやミス・マープルが有名だが、独立した作品や短編も充実している。短編集「死の猟犬」の中には子供を失った母親が降霊を希望する「最後の降霊会」という話があり今作との一部類似点が見られるのは決して偶然ではないだろう。

ケネス・ブラナーのポアロはパーソナリティを重視しキャラクターとしての探偵ではなく、実存的な1人の人間として描写される。またクリスティのポアロは緻密な論理性が折り重なって灰色の脳細胞というパワーワードが際立っている。時代を隔てた2つのポアロ像。そこへ亡霊という非科学的で非論理的な曖昧な存在が推理モノからゴシックホラーへとジャンルを変化させ前2作との明確な差別化をもたらしている。

元オペラ歌手ロウィーナは娘を亡くしていた。ハロウィンパーティーに招いた子供たちに向ける慈愛に満ちた眼差しは聖母そのものであり娘アリシアを心の底から愛していたことが伺える。だがその一方的な愛情は思いやりの対局に位置し、過保護を超越した支配欲がアリシアを激しく束縛していく。毒を含有する蜂蜜を飲ませる事でアリシアは体調を崩し、幻覚症状により精神的不調をきたした。代理ミュンヒハウゼン症候群とは子供を病気にさせ看病している健気で可愛そうな自分をアピールする精神疾患の事だが、ロウィーナはそれに近いと言えるだろう。本来親なら喜ぶべき娘の婚約話に激昂するくらい依存していたかと思えば死亡が確認された直後躊躇なくその死を偽装したのだから。娘を愛していた。その言葉に嘘偽りはない。ただ歪曲しすぎていただけだ。それを現代では毒親と呼ぶ。
ドレイク家の家政婦オルガはアリシアを娘のように可愛がっていた。体調を崩してからもアリシアと献身的に看病するロウィーナに思いやりをもって接していた。ある時つきっきりのロウィーナを見兼ねたオルガは休息をとるよう促す。アリシアは自分が診てるからと。ロウィーナにとってオルガは信頼のおける人間の1人だ。彼女になら任せても問題ない。さすかに疲弊しきったロウィーナはオルガの言葉に甘えることにした。しかし目に見えぬ何かに怯えるアリシアの看護は想像以上に過酷を極めた。ベッドの上で激しく暴れ、悪霊に憑かれたかのように興奮するアリシアを落ち着かせるためにはどうすればいいのか。すぐ近くにはティーポットと蜂蜜があった。オルガは紅茶に蜂蜜を混ぜアリシアに飲ませた。それが毒物であるとは知らずに。アリシアはやがて大人しくなった。まるで糸が切れた人形のように。ロウィーナの歪んだ愛情とオルガの実直な愛情が偶発的に交錯したその刹那、古都ベネチアに眠る死神を呼び寄せたのである。アリシアの魂は静かに刈り取られ、やがて暗い水底へと沈められた。実の母親によって。

ロウィーナが花壇で育てていたのはシャクナゲである。シャクナゲにはグラヤノトキシンという有毒成分があり、嘔吐や下痢、血圧低下、めまいなどの中毒症状を引き起こす。その蜂蜜を摂取した事による中毒例も報告されており、海外ではマッドハニーと呼称されている。

ポアロは屋敷の中で度々子供の声と少女の姿を目撃する。それは紅茶に混ぜられたシャクナゲの蜂蜜による幻覚症状。
いや、レオポルドの言によると霊は存在し友達だという。たまたま灰色の脳細胞の働きを不活化させる要素があったため理論にギリギリ押し込めることができたが実際この街には亡霊が住み着いているのではないか。ポアロは神を信じないのではない。信じたくないのだ。二度の戦争を経験し愛する人を失った身として神や魂は無意味に等しい。例え存在していたとしてもその加護にあやかっはたことなど一度もない。救済を得たことも一度もない。それならば神の存在の有無は自分には全く関係ない。完璧主義で理論家で尊大なエルキュール・ポアロ。揺るぎない自信がエキゾチックな舞台に呑みこまれ、積み重ねてきた探偵としてのキャリアと頑固なまでの確固たるアイデンティティがここで初めて崩れかける。

今作は人物描写の機微が非常に巧みであり、ゴシックホラーの雰囲気を醸成しつつ古典ミステリーとしても成立させている。アガサ・クリスティというよりはエドガー・アラン・ポーに近いだろうか。
シリーズを通して1番短い上映時間も良心的かつ作品のコクを濃厚にしている。
スタッフや共演者は口を揃えて言う。
ケネス・ブラナーの細部に至るこだわりの強さはポアロそのものだと。
シェイクスピア俳優として名を馳せた圧倒的演技力、世界に認められた脚本力、妥協を許さず、拘泥する不退転の意志力、そこから紡がれる現代のポアロ像は独創的な解釈と魅力的な脚色に彩られ我々をさらなる美しいロジカルな迷宮、推理小説の世界へと誘ってくれるだろう。
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