レオピン

大いなる勇者のレオピンのレビュー・感想・評価

大いなる勇者(1972年製作の映画)
4.6
the rocky mountains is the marrow of the world

原作はバーディス・フィッシャーの小説『マウンテン・マン』とレイモンド・W・ソープとロバート・バンカーの小説『クロウ・キラー』

戦争に嫌気がさし世間に背を向けロッキー山脈に入って生涯を送った男。ジェレマイア・ジョンソン、またの名をリバー・イーティング・ションソン (肝臓食い)。

山に住むのは他にフラットヘッド族とクロウ族(カラス)という性格の異なる部族。クロウは遺体が無傷で埋葬されなければ魂は永遠に地上をさまようということを信じていた。もっとも肝臓食いのような野蛮なエピソードはさすがにレッドフォード主演の映画ではカットされている。

山の季節の移り変わり レッドフォードの自然体 時折り入る歌に心揺さぶられる
族長の娘スワンと少年と三人で家を建て暮らすシーンはこの作品で最も穏やかで美しい。銃を使わずに獲物を取る 植物からおやきのようなビスケットを作り食事をする 花を育て 服を作り ボール遊びをする 言葉なんか要らない。生活の知恵は女から生まれる 老猟師のベアクロー爺さんなんて何年も山暮らししていてあのあばら家なんだから

スワンはひょんなことからフラットヘッドの族長から差し出された娘。インディアン部族はどこでも名誉を重んじる。贈り物を貰ったらそれより大きなものを相手に与えなくてはならない。それが出来なければ相手を殺すんだと。信じられないほどあっけない結婚。

一方戦闘的なクロウでは敵の強さが種族の偉大さにつながる。だから律儀にも一人ずつ殺しにくる。それが勇気の証明。アパッチなら50人で一気に来るらしい。この一人一殺で四六時中いかなる時も命を狙われるというのが怖い。だが監督はここに重きを置かない。ページをめくるようにさっと描かれる。

気がつけばジョンソンは神として祀られるまでに 生きてるんだが死んでるのか不明 既に伝説となっていた

皮剥ぎ対策のためにスキンヘッドにしちゃうデル・ギユーにステファン・ギーラッシュ
老グリズリーハンター「ベア・クロー」にウィル・ギア
スワンにデル・ボルトン

今何月だ?  
虚ろな目がもう元の文明世界とは完全に切れたことを表していた。それを見て老猟師は去っていく。つつがなくやっていけよ
ここからもうちょっと先に進めると白人酋長ものにもなっていくが、それはミリアスがまた後に書く作品だ。

さすらう魂 根っこに戻ろう それがこの頃の時代精神。ドラマ「ルーツ」とか、JR東海の「そうだ京都、行こう。」もこれに近いのかもしれない。いくつかのショットで子供の頃に観たテレビCMなんかを思い起こした。見覚えがある。手つかずの大自然というやつ。日本の広告もきっとあれを表現したかったのだろう。もちろん映画はもっとゆったり見ることが出来るが。(アニメ「北斗の拳」EDとか、そういや口のきけなくなった少女との出会いってのもこれ影響してんのかな) 

ジェイソンが初め山に入った動機は世捨て願望あるいは逃避だったのかもしれないが、自然と調和して生きることを学び、やがてはクロウの戦士からも認められるところまで辿り着く。

アメリカ人の精神の底流にある孤独傾向 孤高アコガレ。山に入るということがそのまま大陸のしがらみを捨て海を渡ったピルグリムたちをなぞっているのか。一から物事を組み立てて範囲を広げていくという拡大へのオブセッションはどう形作られていったのか。それは常にクロウ族からロックオンされているのに似ている。もうしんどい、降りたい。
彼らにとってはそんなときにいつも立ち戻っていきたくなる種類の映画なんだろう。


⇒挿入曲 ティム・マッキンタイア「ジェレマイア・ジョンソンのバラード」
⇒関連作 チャールズ・ポーティス『トゥルー・グリット』、『馬と呼ばれた男』(‘70) 『荒野に生きる』(‘71)

⇒米英戦争(1812-15) 第二次独立戦争。多くのインディアン部族が領土を追われ散り散りに。
⇒米墨戦争(1846-48)
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