カラン

絞殺魔のカランのレビュー・感想・評価

絞殺魔(1968年製作の映画)
4.5
1962から1964年にかけてボストンで、19歳から85歳までの女性が絞殺された事件が起こった。レイプはなく、衣服の切り端で外科結びされて縛り付けられているなど、同一犯の痕跡があったが、手口が変化するうちに捜査はますます混乱し、いまだに未解明の部分もあるようだ。この事件に関する小説も登場し、実話とノベライズされたもの双方に映画は基づいているらしい。その小説が事実をきちんと把握していれば、based on the novelというだけだろうが、犯人とされた男は厳重な監視のなされた獄中で殺害された。誰が殺したのか判明していない。さらに、タイトルが示唆しているように絞殺だけでレイプはしないものとされていたわけで、精液のDNA鑑定が行われたのは2013年であったという。



☆スプリットスクリーン

こうした事実、つまり事件は謎であるということをフライシャーは、誰が犯行を犯したのかという謎ではなく、犯行の立証不可能生に置き換えて映像にしようとする。スプリットスクリーンにより、シネスコのスクリーンが最大8分割であったろうか、様々な形状、面積で映写される。このスプリットスクリーンは事件の実態に即しているだろう。不規則に多発する凶行、多数寄せられるが空転する証言、何より真実を写すはずのカメラの無力。スクリーンの分断は根拠の複数性を示し、それは真理の《唯一性》と相克するのである。

この分割画面はかなりよく作り込まれており、単純にそれだけでも楽しい。例えば、ワイドに広がった画面に、ニュースを映すブラウン管が映っている。それがスプリットされて左端に移ると、音が左端に移る。テレビを部屋の左端に移したように聴こえるというのは重要な演出である。あるいは、同時カットバックも行われる。キャスターが現場でマイクを握ってカメラに話しかけている後ろ姿を捉えると、スプリットして、劇中の報道番組のカメラが捉えたキャスターの正面の姿が映しだされる。つまり、正面と背面が同時に映っているのだ。かなり手の込んだ作り込みが為されており、一見の価値ありありである。しかも後半はさらに手が入る。


☆スプリットスクリーンの彼方に

前半が複数化し混乱したショットの寄せ集めによって、進展しない捜査を表現していたが、ひょんな成り行きから犯人を捕まえる。実際の事件でも別件での逮捕なので事実偶然の逮捕であるようだ。この逮捕時点でこの映画の捜査当局はこいつが犯人だと決めてかかっているということは既に述べた。通常、この手の単純化は短絡的の謗りを免れないものだが、フライシャーはここから掘っていく。真っ白いいかにも狂気が露出するはずの尋問部屋は病院の一室で、レコーダーが回転しており、巨大なマジックミラーがあるだけであり、二重人格の容疑者のインタビューを通して映像の奥行きを掘っていく。表面の奥、奥の奥に、狂気の闇が凄むはず。

左端にスプリットした画面。暗がりから容疑者がスクリーン手前に出てくると、その暗がりが容疑者の形で刳りぬける。その刳り抜かれたひと形から誰か老婆が顔を出し、恐怖に怯えた表情である。犯行現場における犠牲者の顔なのだろう。物証も目撃証言もない記憶の闇のなかの捜査と追跡を映像化し、スプリットした小さな画面の中に別の画面を見つけて、空間に奥行きと多層性を掘り当てるのである。

また、捜査官が記憶を探ると手持ちのカメラが横にふらふら歪むPOVになる。尋問の現場から記憶の世界に入ったその入り口の辺りを歩むときにはまだ捜査官が喋っている。この異世界の相互陥入がこの映画が超越を映す唯一の箇所である。インタビューの時にはレコーダーが回転し続けており、さらに捜査官と男のテーブルの周囲をゆったりとカメラが回り出し、執拗に眩暈の回転のイメージを作るのも、相当に見事である。


☆超越しない「不完全性定理」

マルチスプリットの画面で犯人の足だけが前半に映るショットがある。このショットのイメージをそのまま独立した作品に仕立てたのが『見えない恐怖』(1971)なのだろう。しかし本作のカメラマンは『見えない恐怖』とは異なり、リチャード・H・クラインであり、この人はまったく違った画風を見せる『マンディンゴ』(1975)を撮った人である。つまりこれらの監督であるリチャード・フライシャーが主導的に作品の画を作っているのは間違いないわけだ。しかし、この『絞殺魔』は狂気の入り口に立つのが最大の超越で、例えば男の二重性のやばい側を露出しない。『サンセット大通り』(1950)や『何がジェーンに起こったか?』(1962)のように狂気の本体に超越しない。

この映画の設定では、男の狂気に触れた瞬間、男の人格が破綻することになる。したがって狂気の露出は不可能ということになる。何かこの辺が問題の究極的根拠づけも証言も不可能であるという「不完全性定理」のヴァリエーションを提示しただけで悦んでいるインポ的倒錯であるように感じて、点数を下げたのであった。絶対はない。そりゃそうだが、絶対はないから狂うのだし、その不可能な狂気を映像にしてほしかった。このあたりのことはベルトルッチの『暗殺の森』や『分身』に似た感触で、アポリアの指摘そのものに興奮して終わるという「だからどーした?」感が残った。『マンディンゴ』より点数を下げた所以である。



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