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ミャンマー・ダイアリーズのchiakihayashiのレビュー・感想・評価

ミャンマー・ダイアリーズ(2022年製作の映画)
3.6
@ポレポレ東中野
 2021年に軍事クーデターが起きた数日後から、ミャンマーの若い映像作家たちが集まってオムニバス短編集を作るというアイデアが生まれたという。その後、民主化の時代にオランダから招かれてミャンマーで映画制作を教えていたオランダ人夫妻がプロデューサーとしてサポートに回り、匿名、かつ作品上でも顔を隠して身元を明かさないというドグマ(ルール)で各々が協力しあいながら映画作りを始める。

 そこにSNSに人々がアップした市民ジャーナリズムの映像が加わった。国内では広く拡散されていても、英語の字幕がついていないために国外では知られることがなかったものが選ばれた。

 「ママを捕まえないで」と泣きじゃくる子どもの声が聞こえるなかで、軍と結託した警察が大人数で一軒の家の前に群がっている。軍や警察が雇った武装集団が民間人を装ってデモの参加者に暴行を振るっている。張り詰めた顔付きで人びとが一斉に鍋やフライパンなどを叩いている(これはもともとは、悪魔を追い払うという儀礼的な意味を持つという)。

 そうした場面をスマホのカメラが捉えた〈記録〉に、人びとの言わば半径5メートル以内の個々の重い〈物語〉が挟まれる。カップルの片割れがデモに行って帰らぬ人となり、残されたひとりはもはや未来にどんな希望も持てない。あるいは、妊娠してしまったと告げられないままに、逮捕者リストに載っている彼は森(ジャングル)に入るために行ってしまう。そして、公務員や医療従事者などが軍への協力を拒否する「市民的不服従(CDM)」を実行しようとする男性に被さってくる視えない息苦しさ・・・・・・。
 
 ひとは目の前で起きている許されない不正をなんとか記録にとどめようとする。たとえ、いつ、どこの誰に届くかわからなくても。誰かに届く可能性がほとんどゼロに近いようであってさえ。それは根本的に人間に対する信頼というものがあるからだ−−−−と、私は、ナチスの絶滅収容所で記録され、何年もの時を隔てて発見された写真に学んだ(この記録は2015年、ネメシュ・ラースロー監督の『サウルの息子』という優れた物語として再現されることになった)。

 それは現代なら、軍隊や警察の暴行を目撃した際に思わずスマホを向けて撮影する普通の人々の内にも潜んでいるものなのだろう(昨年公開されたフランスのダヴィッド・デュフレーヌ監督『暴力をめぐる対話』には、その行為の後に何をどう考えるか?が提起されている)。
 
 そうした〈記録〉と地続きの本作の〈物語〉は、同時にひとがある思いを他者と深く共有するためになんらかの筋立てがあるストーリーへと仕立てずにはいられない衝動をもつことを感じさせる。〈物語〉の力を駆動させようとするのもまた、人間にとっては普遍的なことなのだろう。

 この映画が完成したのは2021年末。現在のミャンマーでは、弾圧が強化され、軍の行動が残酷になる一方、国内の重工業を支配する財閥でもある国軍につながる映画制作会社が、観客に現実逃避の機会を提供する娯楽作品を作っているという−−−−といったさまざまな情報がぎっしり詰まった映画のパンフレットの売り上げも含め、この映画による収益は全額、ミャンマーからの避難民への支援金となる。
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