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ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワーのnetfilmsのレビュー・感想・評価

4.1
 何か特殊なレッテル張りなど本当にどうでも良くて、アメリカに暮らす映画監督の実験的な映画理論は面白いし、大変興味深かったしタメにもなった。ある種ヘテロ社会に男性として生まれ落ちてすみませんとスクリーンの被膜に真顔で謝りたくなるほど、私が好きな傑作映画の数々がニナ・メンケスによって丁寧にこき下ろされて行く。それは痛快というよりはその理由にはなっから目を背け、居直る人もいるだろうが私はここ数年に顧みられた女性監督たちの映画と絡ませ、比較しながらニナ・メンケスの語りにしばし耳を傾けた。主体と客体、受動と能動という関係性で示される映像の快楽はセクシュアリティやジェンダー平等が叫ばれるようになった今でも女性たちに違和感を投げ掛ける。それは映画業界という産業そのものの欺瞞や搾取構造にも明らかなのだが、映像そのものが持つエンゲージメントには常に男性の眼差しがあったことは疑いようもない。それは見つめる側が男性であり、見つめられる側が女性だという事実に無意識的に蔓延する事象である。それは20世紀に見られた家父長制という地盤の影響も大きい気はした。

 ある種の映像が孕む性的な倒錯性や暴力的な側面を現代に生きる我々は無視することなど出来ない。もはや先進国に生きる我々にとっては自明の事実をニナ・メンケスは1つ1つの作品を紐解きながら、男性中心社会の中で光り輝く映画の闇を可視化せんとする。その執念深い試みそのものが怖いというのは偽らざる事実なのだが、私の好きな作品が私の周囲の人物の批評や感想とはまったく違う主題によってズタズタに切り落とされて行く様は見事と言う他ない。具体例を挙げればポール・トーマス・アンダーソンやマーティン・スコセージやブライアン・デ・パルマやスパイク・リーの作品が今作では見事にこき下ろされて行く。その批評眼自体は見事に痛快で、特にマーティン・スコセージの『レイジング・ブル』のロケーションから垣間見る聞こえない言葉の論考は必見と呼ぶ他ない。それと同時に今作が真に重要なのは、言及されなかった男性作家の相関図であろう。フェミニストにとっては常にLGBTQIA+とのレイヤーの違いが挙げられるが、ガス・ヴァン・サントの『マイ・プライヴェート・アイダホ』とアニエス・ヴァルダの『幸福』との共通性に言及する辺りは隙がない。ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』を男性的とこき下ろす様子が一番真に迫っており、ビル・マーレイのしわがれた顔とスカーレット・ヨハンソンの透けパンティが同列に扱われる様を強い口調で断罪する場面が一番心に残った。
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