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ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワーのarchのレビュー・感想・評価

4.0
映画の文脈から切り離されたショットを引用することにどれだけの価値があるのかは、ひとまず置いておくとして。

映画史における"男性の眼差し"を映画的文法の中から引きずり出し、整理し、理路整然とした映画があらゆる点で如何に"男性的"な産物として存在してきたのかを描き出しており、素晴らしかった。

何より素晴らしいのは、女性の客体化という観点を技術的なレベルで具体的に説明していること。女性が性的対象として描かれてきた歴史は承知していることを前提としても、ライティングやカメラワークのレベルで理解はできていなかったことを痛感させられる。体のラインを追うカメラワークやパーツショット、当然のようにセックスシーンや入浴シーンでは、女性の体しか映されない。また女性は2次元的な照明で、男性は3次元的な照明で撮られるなんてのも意図含めて説明されると如何に男性的にチューニングされたものを無自覚に受け取ってきたのかを理解させられる。

また不可視化される"男性"についても興味深い。監督はハリウッドにおいて"男性監督"を指すことであり、撮影監督もプロデューサーも観客も全て当然のように"男性"が設定される。
ゴダール『軽蔑』の冒頭が、男性だらけの映画制作陣が、女性を撮影するそのものズバリの可視化になっていることに今回初めて気付かされたし、そして言われなければ、"男性"で当たり前だという認識で観ていたこと、つまり構造的な部分について何も理解出来ていなかったの証左になっていて、恥ずかしかった。
ゴダールの「女性を綺麗に撮れていれば、それはいい映画だ」というかつての発言は、まさにその「女性の客体化」が如何に映画的とされてきたかを示す言葉として再解釈できる。

そこからアリス・ギイから初め、ローラ・マルヴィの論文、そしてMe Too運動に繋がっていき、ちゃんとその男性優位な映画における主体と客体の問題に対して、アニエスの名言の引用の元に解答してみせる。女性スタッフの証言を通して、網羅的で尚且つ断言しきるところに、力強さがあり素晴らしさを感じた。

また場面構成が、現実にもたらす影響についてや支配関係を示すかについても興味深かった。引用される『マンディンゴ』を通して男性と女性、だけでなく、白人と黒人という場面でも同様にその支配関係が場面構成という形で示されているのが分かり、この映画における視覚言語の持つパワーの射程を思い知らされる場面だった。



「映画的」という曖昧さのある言葉が、如何に男性の主体が前提にあるのかについて考えた時、面白い映画を撮ろうとするとき、仕方がない部分もあるのでは無いと思う自分がいた。しかしこの映画は後半、その男性の主体から解放され、尚且つ「映画的」だといえる映画が紹介されていく。特に『燃ゆる女の肖像』は主体と客体を同時に成立させた作品として、画面に映像が流れた時凄く救われた気がした。

この世にある映画の9割以上が男性的な視点を免れていないだろう。多くの名作がその視点を持ち、私の愛する映画達も同様だろう。果たして『ブレイン・ウォッシュ』を経て、同じように観れるのだろうか。
定期的に見直していきたい作品だった。
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