脳内金魚

私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?の脳内金魚のネタバレレビュー・内容・結末

4.1

このレビューはネタバレを含みます

てっきり原発政策に関する汚職事件を暴いていくのかと思いきや、如何に自白調書(冤罪)が作られていくかだった。

『ロストキング』も本作も奇しくも同じ2012年が舞台となっている。漠然としたイメージで、もっと欧州は女性の社会進出が進んでいるのかと思ったが、この二作品を見るとまだまだガラスの天井があるのだと分かる。もちろん、女性のトップ起用などから見た社会進出と言う点では日本より進んでいるのだろうが、だからといって世の中がそれを当たり前のこととして、また肯定的に受け入れているかはまた別問題である。

原発会社の労働組合代表を勤めるモーリーンは、組合活動に端を発する脅迫を受けるようになる。気丈にも脅しに屈しないモーリーンだが、遂には彼女は自宅で襲撃され、顔に覆面を被せられ椅子に両手足をくくりつけられ、膣にはナイフの柄を突っ込まれたショッキングな姿で発見される。
はじめは被害者として事件に関わっていた彼女だが、捜査が憲兵隊(警察とは異なる?)の管轄下に置かれると風向きが変わってくる。担当者のひとりである男性軍曹は、聴取を受けるモーリーンが冷静すぎると指摘する。発見されるまでの6時間騒ぎ立てもせず、膣に刺さったナイフを取り除こうともしない。第一、6時間もあればナイフは自然と抜けるはずだと言う。これに対し、ひとりの女性捜査補助員が「タンポンを知っていますか?」と切り返す。
この会話を補足すると、タンポンは膣に挿入するタイプの生理用品で、長時間入れっぱなしが可能だ。(衛生面から長時間の連続挿入は推奨されないが)何なら経血漏れを気にしなくていいので、プールや温泉に入ることも可能だ。つまり、膣に入ったものが自然脱落することはないのだ。この一見単なる性差による無知な台詞が、のちのちの布石となってくる。
このあたりから、被害者に落ち度があったのではないかと言う雰囲気が、捜査チームに蔓延ってくる。モーリーンが脅迫されていたと言う客観的・物的証拠が何もないこと、彼女の周辺人物への聞き込みから構築される彼女の姿がそれを増強させていく。曰く、彼女は強気だのなんだのと。さらに、彼女が襲われた物的証拠が見つからないことや現場の不自然さから、憲兵隊はこの襲撃事件はモーリーンの自作自演ではないかと次第に疑い出し、最終的には逆に彼女を虚偽の事件をでっちあげた罪で逮捕する。
この逮捕に至るまでに、憲兵隊は彼女になぜか再度内診を受けさせたり、事件の再現として彼女の膣にナイフの柄を挿入させる。何のために必要なのか、具体的説明もなくだ。この逮捕・起訴に過程が素人目から見ても実に乱暴な推論で成り立っている。例えば、彼女は両手は後ろ手に粘着テープで巻かれていたが、それが一人で出来るかは再現はさせないのだ。膣にナイフは入れたのにだ。実は襲撃犯はテープやナイフは彼女の自宅にあったものを使用しているのだが、憲兵隊はそれが不自然だと「襲撃犯が手ぶらで来るのか?なぜ?」と詰め寄る。「本人はご丁寧にもパンストを脱がしてナイフを突っ込んでいる。破いた方が早いのになぜ?」とも。
だが、そんなことを聞かれても彼女に分かるわけがない。彼女は犯人ではないし、それを解明・証明するのが警察や検察の仕事であろう。証明責任は被害者にはない。
興味深いのが、劇中で何度も「よき被害者」と言う言葉が出てくる点だ。具体的な定義の説明はないのだが、要は抵抗や自己防衛をしていたかどうかということらしい。実はモーリーンは若い頃にレイプ被害にあっているのだが、その際、彼女の格好(パンストの下に下着を履いていなかった)が「よき被害者」ではなかったと言うことで、犯人が減刑されているのだ。唖然とするばかりである。
結局、心の折れた形のモーリーンは「自白」し、起訴される。裁判でも全て推論の域をでない証拠ばかりが事実認定される。「疑わしきは被告人の利益に」は悉く踏みにじられるのである。また、証明責任は検察側にあるにも関わらず、被害者であったはずのモーリーンの言動に落ち度があったと言う検察側の証言ばかりが証拠採用される。
だが、冷静になって考えてほしい。安全であるはずの自宅で襲われ、体は拘束され視界も封じられている。そんな状態で犯人の状況も分からず、大声を出して助けを求められるだろうか?殺されるかもしれないのに?性的暴行を受けてもいるのに、何かしら抵抗を示すべきだったと?尊厳どころか命も脅かされたのに、必死に冷静に聴取を受ければ冷静すぎる。では感情も露に泣き叫べば、きっと「これだから女は」と反応するのだろう。女だてらに組合代表をし、歯に衣着せぬ言動をしていたから、敵を作って当然であり、脅されたり暴行を受けるのも当然だと?これが、被害者が男性だったらどうだっただろう?「これが女性だったらどうだろう」なんて、きっと考えないだろう。でも、わたしは考えてしまう。「これが(被害者が)男性だったらこうなっていただろうか」と。それがどういうことか、考えてみてほしい。

有罪が確定後、無気力だったモーリーンだが、思わぬところから手が差し伸べられる。かつて自分の事件で補助捜査員だった女性が、類似の未解決事件があることを発見する。モーリーンはそれに背を押されて、自身の無実を証明すべく立ち上がる。
その控訴審のときに味方になったのは、彼女が守ってきた名もなき組合員たちだ。彼らとて、モーリーン襲撃事件直後は会社への訴えを取り下げたり、距離を置いていた。薄情と言ってしまえばそれまでだが、雇用が不安定な組合員たちにそこまで求めるのは酷だろう。
けれど、最終的には彼女の真の味方でいてくれたのは、共に男性と戦ってきた前女社長ではなく、弱い立場の彼ら組合員だった。
控訴審では、一審(でいいのか?)での事実認定は杜撰であり、モーリーンは無罪となる。だが、モーリーンは自身の襲撃事件の起訴は取り下げてしまう。

こんな杜撰な捜査はあり得ないといいたいところだが、わたしたちは常に「べきだった」とか「こうするはずだ」とかバイアスに振り回されがちだ。それこそ「男でレイプなんてあり得ない」とか「痴漢されてなぜ声を出さなかったの」だとかだ。わたしたちは、モーリーンにも、検察・憲兵隊側のどちらにも転がる要素を持っているのだと気付けば、他人事とは思えない映画だった。


311後の原発政策、日本人が自覚ないだけで世界に影響を与えていたのね。
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