デニロ

シークレット・サンシャイン 4K レストアのデニロのネタバレレビュー・内容・結末

3.5

このレビューはネタバレを含みます

2007年製作。原作脚本監督イ・チャンドン。

明るい話なのかと思っていたら、話が進んでいくうちになんだかめまいのする話になっていった。

序盤で、主人公チョン・ドヨンの幼い息子が誘拐され死体で発見される。死亡の届けを提出する必要に迫られて役所の窓口に立つのだけど、そこで彼女が過呼吸に陥り倒れ込んでしまうシーンを作っている。そのシーンに大昔参列した葬儀を思い起こした。

取引先の責任者の二十歳のご子息がオートバイの事故で亡くなった際の葬儀。読経も終わり出棺を控えて棺桶に釘打ちをするときだったんでしょうか、母親と思われる女性の、打たないで、という声とも叫びともつかぬ音が響き渡りました。悲しみが音として響いてこころに届きました。

交通事故死した夫の故郷でピアノ教室を開きながら新しいの人生を送ろうと息子と引っ越してきたチョン・ドヨン。それほどに彼女は夫を思っていたけれど、実は夫には別に愛人がいたりもして。彼女にひとめ惚れしたのかその土地の自動車修理会社の社長ソン・ガンホが絡みつく。彼の仲間の不動産仲介業者の伝手でピアノ教室を開ける物件を借りて開業にこぎつける。その後も頻繁に彼女の前に現れながら、自分を大きく見せようと色々言うのだけれど、彼の思いには彼女はけんもほろろ。彼女の弟からも、あんたは姉さんのタイプじゃないから、諦めなさいよときつい忠告。彼女の身の上を聞きつけたお向かいの薬局のおばさんから、あんたのような不幸な人には神の愛が必要よ/見えないものなんて信じられない/あの日差しは見えるでしょう。あの中にも神の御心があるのですよ/なんて言われてもしらけるばかり。彼女もちょっと変わっていて、初めて入ったお店のマダムに内装を明るくしたらもっと客が入るといらぬお節介をしたり、虚栄心なのか夫の生命保険金の残りでこの地の土地に投機したい云々と周囲に言いふらしたり。その虚栄心が仇となる。

誘拐され殺された息子の母となり、周囲から腫物の様に扱われるやら、死んだ夫の母親からは息子を死なされ孫が死んでも涙も流さぬ蛇蝎!全部お前のせいだと罵られるやら、こころが失われて行きます。

心配で心配で付きまとうソン・ガンホと共に足を踏み入れた教会で、チョン・ドヨンは多くの信者の唱和に感情の堰が切れて初めて涙を流すことができる。そして入信していくのですが。

ここから物語が急展開してチョン・ドヨンが狂おしく輝きだすのです。

毒気がすっかり抜け落ちてすっきりとした表情で布教活動に打ち込む。わたしは神に救われました。その活動の中で彼女は息子を殺めた男を赦そうと、その男に面会を求めます。周囲はこころの中で赦せばいいのではないか、と進言するのですが、直接会って赦したいと。ソン・ガンホもわざわざ会いに行かなくても、と押し留めるのですが。面会室で向き合うと、その男が晴れ晴れとした様子で何とこう言うのです。わたしは、刑に服す中で神と出会い、神に罪を赦されました。こころにも平穏が訪れ、今はあなたにも平穏が訪れるように神にお祈りしています。

神が赦す?赦すのはわたしじゃなければいけない。神なんて!!/全部嘘さ そんなもんさ/夏の恋はまぼろし/嘘じゃないさ うぶじゃないさ/夏の女は まやかし/(詞:サンプラザ中野/爆風スランプ/リゾ・ラバ)みたいな歌を流して教会の集会を妨害したり。敬虔な教区長を肉体で誘惑したり、その後の彼女は土中を覗き込むような目で世界を見るのです。

イ・チャンドンには「宗教」や「神」をモチーフにして物語を流していきますが、そこには批評らしきものは見えません。ただ流しているのです。神の存在や宗教をどうこう描こうというものではないようです。本作でも描いているのは人間の財欲、支配欲、承認欲求、性欲、色欲をない交ぜにしたものです。その混沌を物語として提示する。

イ・チャンドンのラストはいつも彼の思いで終わります。裏庭で自らの髪を切るチョン・ドヨンに鏡を当ててあげるのは、彼女から何でここにいるのよ!といつも邪険にされているソン・ガンホ。そして、裏庭に差し込む日差しの中に在るのは二つのシークレット・サンシャイン。

目黒シネマ イ・チャンドン レトロスペクティブ にて
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