YasujiOshiba

月のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
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新宿バルト9。23-154。病院帰りに飛び込む。仮予約というシステムがなければ行ってない。小説を眺めながらスクリーンを追う。見るべき作品だと改めて確認。

読みかけの小説を、どうやって映像化するのかと思っていたら、なるほど宮沢りえとオダギリジョーを持ってきて解決したわけか。もうひとつの補助線は311。あの後、見たくない光景、嗅ぎたくない匂い、言葉にならない音を排除してきた年月がある。その延長線上に「相模原障害者施設殺傷事件」を置こうという仕掛け。

辺見庸の原作は《きーちゃん》の声にならない声に言葉を乗せてゆき、ただ本当のことを言い続けようとした《さとくん》に寄り添いながら、そのやりとりだけで成立させようとしている(ように思える)。

歴史学においては、「声にならない声」を安易に語ることは厳しい非難の対象になる。つねにすでに言葉を持たない存在をサバルタンと呼ぶなら、定義からして、サバルタンは語ることができない。にもかからわず、歴史はその声を聞くという不可能に挑む。

おなじストーリーテリングだとしても、小説なら思いっきり嘘をつくことができる。宮沢りえが依代となった洋子は最終的にそうしようとするし、彼女とおなじ音の名を持つ陽子/二階堂ふみは嘘と小説のはざまに生きている。

そして《さとくん》の見事な依代となった磯村勇斗は、嘘をつかぬようにするあまり、どこまでも現実から乖離しながら、現実と言葉の距離を埋め合わせようとする。その誠実さが、狂気と触れようとするところで、彼の目を覗き込んでいる洋子/りえは、そこに映る自分自身を覗き込むことになる。そして、ぼくらもまた、ぼくたち自身をのぞきこむ。

スプリット・スクリーンに分離され、いつしかお互いを覗き込んでいるという、そんな迷宮の外側には、あの《きーちゃん》がいる。小説に登場するのか知らない。けれども映画では、その《きーちゃん》を代弁するかのごとく母/高畑淳子が登場する。高畑の演技は悪くない。そうではなくて、ここで母という表象を使う演出は安易にはすぎないか、と思う。

辺見庸のほうは、そういう安易さと小説の嘘を自覚しながら、狭間から垣間見えるものを求めて言葉を紡いだのだろう。もちろん映画にも、言葉を紡ぐような演出はなかったわけではない。

たとえば、冒頭で洋子/りえのあとを飛ぶ蝶。控えめにヒラリとさせるCGがみごとだと思った。あるいはヤマカガシがニョロリと這い出てくるし、黒猫がすっと現れたり、昼間の雲の隙間から青い空をバックにして月が現れたりするのだが、そのすべてはみんな《きーちゃん》のように、言葉を話さない、だから心がないと思われている存在なのだ。

そしてもうひとつ、出生前診断の話。これは映画のオリジナルなのだろうか、障害者の問題と深く連関する。というのも、先天的な異常は生まれる以前に検出され選別されるからだ。羊水検査は、まだ堕胎が可能な時点で行い、そこで異常が認められた親は98%が、生まれようとする命の排除を選ぶという。

堕すというのは、命がまだ心をもたないというフィクションのもとで正当化される。それが正当だとすれば、《きーちゃん》のように「心のない人」とみなされているひとを選別するのもまた正しいことではないのか。《さとくん》はそう問いかける。

あなたは一度でも、奇形になるなら産まない方がよいと思ったことはないのかと問い詰められるとき、洋子はそこに自分自身の姿を見る。無くした子どもと過ごした3年間から逃げてきた自分自身、あらたな命を選別しようとしている自分自身、洋子はそんな自分自身から問いつめられながら、その問いを、答えのないままに、受け止めようとする。

もはや知らないことにはできない。それは起こってしまったし、これからも起こるのだ。ぼくらは知らない方がよかったのかもしれないし、知らないふりをし続けられるのなら、そのほうが平穏だったのかもしれない。けれどもそれは本当に平穏なのか。

ぼくらはすでにパンドラの箱を開け放してしまった。見ないふりをしても、そいつはどこまでも追いかけてきて、これから起こることを突きつけてくる。だからこそ、どこかで面と向かい受け止めなければならない。

けれどもそれって、そんなに難しいことなのだろうか。そんなに勇気のいることなのだろうか。《さとくん》の恋人役で登場した長井恵里を見よ。その声なき声は、衒うことなくスッと寄り添い、シンプルな笑顔で「ずっと一緒に暮らしたいね」と伝えたではないか。

宮沢りえとオダギリジョーの夫婦を見よ。卵焼きの偶然からこのかたずっと、手を重ね合わることを二人の儀礼としてきたふたりを、ただ微笑ましいと見るだけでは大切なことを見落としてしまうだろう。言葉が嘘をつくとしても、声なき声のように、合わせる手と手はその温もりを嘘偽りなく伝えようとするものではなかったか。

そんな声なき声、言葉ではなく人の声。そんな手の温もり、意味ではなく暖かさ。そこに到来する共同体の可能性が立ち上がる。


追記:
小説ではクリーンバンディットの『ロッカバイ』が歌われる。タイトルは「ロック」と「ララバイ」の合成語。お前の人生は私のようにはならないわと母が子に歌うロック・ララバイ。
https://www.youtube.com/watch?v=czc-uXl6ptc

ここに訳詩がありまっせ。
https://studio-webli.com/article/lyrics/210.html

映画では井上陽水の『東へ西へ』。
「ガンバレ みんなガンバレ 月は流れて 東へ西へ」
歌詞は満月だけど映画は三日月。欠けていても月だってことだよね。

https://www.youtube.com/watch?v=ghRkjK-vXX0
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