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月のchiのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
4.1
石井裕也は挑み続ける映画監督だ。彼の映画は元々よく見ていたが、いち早くコロナ禍を描いた『茜色に焼かれる』以降、私の中で評価が上がっている。韓国のスタッフ・キャストとオール韓国ロケで言語を超越した人間関係を描いた『アジアの天使』、コロナ禍を舞台に映画業界の理不尽や不都合なことはなかったことにする世間を描いた『愛にイナズマ』、そして実際に起きた障害者施設大量殺人事件を描いた本作と、他の映画監督が避けるテーマや諦めることにも果敢に挑み続け、成し遂げている監督だと見るたびに感じる。石井裕也は、あったことをなかったことにしない映画監督である。
本作は正直、かなりタブーであろう。監督と磯村勇斗の舞台挨拶付き上映だったのだが、公開自体が危ぶまれたと話していた。事件を起こす人物を演じた磯村勇斗はじめ、相当な覚悟を決めて本作に挑んだであろうことは想像するに難くない。観客も覚悟を決めて見る。

語りたいことは色々あるが、まずは作品について。最初のシーンから一気に引き込まれ、すぐに障害者施設のシーンに移っていくわけだが、障害者の方々をしっかり映すので、始まって早々にこの作品は生半可な気持ちでは見れないものだと覚悟した。そして、宮沢りえとオダギリジョーの夫婦が抱える苦しみが描かれていくのだが、この展開にはなるほどと思った。障害ではなく病気だったのだと強調する板谷由夏演じる産科医、また健常ではない子どもが生まれるのではないかと不安になる宮沢りえ。障害者に対する差別心などないと言いながらも、人間は自分の子どもが健常で生まれてくることを願うし、出生前診断で異常が見つかれば多くの親が中絶を選択するのだ。磯村勇斗演じるサトくんに対し、その考えはわからないと言いながらも無意識に障害のないことを望んでいる事実。その描き方はとてもわかりやすく、見ている観客も自分ごととして考えられたのではないかと思う。
もう一つ上手いなと思ったのは、サトくんの彼女が聾者であったこと。実際の事件の犯人の実話なのかどうか調べていないのでわからないが、「意思疎通ができる」ことが犯人にとっての大きなポイントだったことがよく分かる。聴覚障害があり話すことができなくても、手話という方法で意思疎通ができれば、彼にとってその人は人間なのだ。彼女役の女優さんも上手かったなと思う。
以上を踏まえて、犯人の主張について見ながら考えていたのだが、彼の主張は破綻しているように思う。心がない奴は人間じゃないと彼は言う。そして意思疎通のできない人間を殺していくのだが、意思疎通ができない=心がない、ではないでしょ。意思疎通ができないからその人が思っていることを知ることはできないけど、それは何も思っていない、心がないことにはならない。オダギリジョーがサトくんに「俺の息子も話せなかったよ」と言って、サトくんが面食らう場面があったが、そう。彼の意思疎通ができない奴は人間じゃないという理論で行くと、この夫婦の息子も人間じゃないことになる。
たしかに、耳も聞こえず目も見えず意思疎通もできず、身動きも取れずに毎日真っ暗な中ベッドに寝ているだけのきーちゃんを見ると、生きている意味はあるのだろうかと私も思ってしまった。しかし、その人の人生を他人が勝手に無意味だと決めつけるのは間違っている。人生を評価できるのは自分自身だけだ。話が逸れるが、私は大学の文学部出身なのだが、高校時代に文学部に進みたいと決めた決定的な出来事がある。入試の小論文の問題で、この人の人生は成功だったかという問いがあった。それに対し、人の人生が成功だったか、正しかったかは他人が決められるものではないと答えるのが文学部だと高校時代に恩師が教えてくれた。他の学部であれば、たとえばお金や経歴で評価することがあるかもしれないが、それをしない、自分の人生を評価できるのは自分だけという考え方に感銘を受けたのをよく覚えている。『ロストケア』のレビューでも書いたが、安楽死という考え方自体は私は否定しないが、たとえどんな人だろうと他人が人の人生を終わらせる権利は絶対にないと思う。
でもサトくんが言っていたように、自分の家族だったらって考えると違う考えも出てくる。ロストケアでも描写があったが、死んでくれてほっとした気持ち、やっと解放されたという救われた気持ちって1ミリもなかったのかなって思うんです。洋子も息子が亡くなるまでの3年間は地獄だったと言っていて、それが終わった時に人は何を思うのだろう。

このテーマで映画を作った監督はじめスタッフ・キャストに敬意を表すが、作品としては思ったほど心は揺さぶられなかったなというのが正直なところ。もっと心ズタズタにされるかと思っていたので。恐らく、実際にこの事件が起きた時に感じたこと以上のものが出てこなかったところが要因だと思う。なのでこのくらいの評価で。

あと、キリスト教描写について。『愛にイナズマ』試写会でのティーチインで、監督にキリスト教描写について質問した方がいて、石井監督は息子さんがカトリックの幼稚園に通ってるのもあってキリスト教に興味が湧いているらしい。そういえば今公開中の『キリエのうた』もキリスト教描写がある(2人の名前がキリスト教からつけられている)が、映画を作る上でキリスト教描写があると一つ深みが出るなぁと思う。
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