シシオリシンシ

月のシシオリシンシのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
4.2
実際の障害者施設での惨劇をモチーフとした社会派ノワール。ここで描かれる犯人の動機や人物造形は実際のものと似て非なるものなので、一創作物(完全なるフィクション)として評価する。

主人公の洋子は元ベストセラー作家、夫の昌平はアマチュアの人形映画監督、陽子は小説家を目指す卵、さとくんは絵と、メインの登場人物には創作で自分を表現するという共通項がある。ある場面で創作論的な踏み込みをしているシーンがあるのが意外で面白く、テーマを汲み取る導線にもなっていた。
「音と匂いは嘘をつかない」
創作とは空想の産物、すなわち嘘を描くものだからこそ本物を作品に入れなければならないと言う陽子とさとくんには真っ直ぐな青さと危うさがあり、後の顛末への暗示のように示されていた。

音は本物、とあるが、それに準拠するようにこの映画は音がかなりこだわられていることが分かる。生活音や日常にありふれた音であるはずなのに最初から最後まで観客にゾワゾワした不穏さや不安感をあたえた音響演出がされていたのが印象的。

この映画は二つのメインストーリーが軸となり、螺旋のようにねじりあいながらテーマを浮き彫りにしていく構成になっている。
息子のショウイチを失ったことで壊れ物になった洋子と昌平の夫婦が、嘘で塗りかためた優しさから脱し、本音をぶつけ、家族の絆が癒されるまでを丹念に描いたハートウォーミングなドラマ。
それと同時進行で、障害者に対して優しさや慈愛を持って献身的に接していたさとくんが、劣悪な職場環境や同僚からのパワハラ、いつまでも意思疎通できない入所者への絶望感や怒りが積み重なり、社会のためという大義名分のもと障害者を皆殺しにするという凶行が描かれる。

排泄物におおわれて自慰をする入所者を見てさとくんは彼と自分が重なり、障害者を殺すと宣言するさとくんに洋子は自分の似姿を彼に見る。
最も忌み嫌い、なりたくないものに自分を重ねてしまう言いようもない拒否感。
ここで描かれているのは誰でも等しくその嫌っているものの側に行ってしまう可能性があるということだ。さとくんが夢を覗かれてるという妄想が見られたようにストレスや外圧から後天的に障害者になることもあるし、洋子もあの施設で仕事を続けていけば思想がさとくんのようになってしまうことをありえてしまうのだ。

洋子に関しては第一子であるショウイチが生まれながら口が聞けず心臓病を患い、僅か3年という人生の殆どをベッドで終えたことへのトラウマがある。失った息子に向き合えず、新たに妊娠した子へも障害があったらどうしようという不安で産むか産まないかを迷っている。そういった障害に対する忌避感を抱える一方、入所者で同じ生年月日のきーちゃんに不思議な共感を覚え、全く意思疎通ができないと決めつけられた彼女の声を聞こうと歩み寄ろうとする。障害への忌避感と理解しようとする心、相反した二つの感情が洋子には存在しており、それが最後まで交わりきらないのも人間らしくて共感してしまう。この矛盾を抱えて迷いながら人は生きなければならない、人が人であるために。

逆に迷うことを止めた人間の極地がさとくんである。
「人って何ですか?」
さとくんが人であるかを判断するラインは心があるかということ。心とは他人と意思疎通できるかということと彼は定義付けている。
心のありかを独善的に定義し、彼が心がないと決めたものは排除する。心のありかなど誰にも決められるはずなどないのに…というのは彼にとっては綺麗事なのだろう。

許されざる惨劇、それはもちろん100%そうなのだが、一口にはそう断じれないほどの当事者側の絶望があるのもまた本当。異なる者を忌み嫌い、汚いものに蓋をして自分が善人の側のつもりでいる無意識の傲慢に、逆襲の刃を突きつけてくる意義深い作品。
シシオリシンシ

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