みささん

月のみささんのネタバレレビュー・内容・結末

(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

※まとまらなくて長いです陳謝

重度の自閉症の伯父は、人の背中に手を当てるのが好きだ。親戚で集まっていると、一人ずつ順番に背中に手を当てて回る。大きな厚い手で、ぐぐ…っと後ろから押され、背中とお腹に力を入れなければ前に倒されてしまうくらい、遠慮のない強い力で、大抵それは1分くらいで終わる。母は「心臓の音でも聞いてるんじゃないの」と言う。私は小さい頃から黙ってそれをやられているが、母は戯れて「やめてよ〜!」と言って、押し返したり、背中を壁に付けてそれができないようにする。伯父は根気強く戦って母の背中を勝ち取る時もあれば、母のいたずらが勝る時もある。子供の兄弟喧嘩みたいだ。祖母が生きていた時は、人の背中を触って回る伯父をよく諌めていた。
思春期の頃は、何を触ったかわからない伯父の、成人男性の大きな手で触られるのが、不快な時期もあった。母のように戯れて拒否ができる程、伯父との距離が近いわけではないから、伯父が近づいてくると偶然を装ってその場を離れることで回避したり、祖母が諌めてくれるのを静かに待った。
母は伯父を'●●ちゃん'と呼ぶので私も同じように呼ぶ。●●ちゃんはトミカの収集家だ。乗り物と、決まった形の服と、カレンダーなど規則正しいものを好む。割と寝坊助だが、食事や入浴は決まった時間に行う。「小さい頃は私より算数が得意で、●●ちゃんは天才なんだと思ってた」と母は言う。大人になった●●ちゃんは、祖母や兄弟からの簡単な指示は理解するが、そこに共感は無く、会話はできない。頼み事や不満があると、言葉にならない声を発して主張する。たまに会う私のことを、姪だと認識しているのかどうかわからない。
●●ちゃんを、障害の無い他の肉親と同じ様に見ることは、私にはできない。でも他の肉親だって変な収集癖があったり、ネトウヨ化して会話が通じなかったりする。●●ちゃん以外の人(私含め)は「普通っぽく」見えるってだけの話で、それ以外に何が違うんだろうとも思う。
誰の目にも「普通っぽく」見えない●●ちゃんは、都市であれば恐らく施設に入らないと暮らせなかっただろう。田舎だから選択肢も人の目も少なくて、生家で暮らすことができている。
●●ちゃんがもし施設に入って、鍵のかかった部屋に入れられたり、言葉がわからないと思われて悪意を浴びせられたり、人では無い扱いをされたら。想像すると心の奥深くに言葉にはできない感情が重く広がって痛い。そんなことは絶対起きてほしくない。でも、じゃあお前が一緒に住んで世話をしろと言われても、絶対に嫌だ。●●ちゃんによって、自分の今の日常が狂うのは耐え難い。

大学時代、教職課程の介護体験実習では、障害児入所施設を選んだ。私の申込書を見た事務員さんに「あそこが一番ハードだと思う、変えたければ特別に変更もできる」と言われた。私にとっては老人や乳幼児を相手にするより、障害児と過ごす方が楽だろうと思ったのだが、確かにその事務員さんの言葉は正しかった。子供達は平日昼間、特別支援学校に通うが、一部の入所者は施設に残る。障害が重いため次の受け入れ先が決まらず、成人しても施設を出られない人たちだ。彼らは体も大きいため力が強い。私よりも大きい体で、子供のように全力で掴みかかってきたり、腕を振り乱したり、噛んだりする。「遠慮してはいけない」と教えられた。こちらも本気でいかないと、押し負けると。そして実習生をプロじゃないと見抜いてるし、信頼関係も無いから、舐めてかかってくる。信頼を得ようと数日かけて本気で対峙して、心を開いてくれたかと思った翌日、虫の居所が悪いのか私のことを忘れたのか、叫んで殴ろうとしてくる。
でも業務自体はつらくはなかった。食事、運動、学習、排泄、入浴などの補助をし、シーツを畳み、NHKを見ながらのんびりしているうちに、学校から子供達が帰ってくる。色々な障害の子がいる。軽度な障害でも家族の理解が無かったり虐待があって入所し、家族に見放されているという自認からうつ気味の子もいた。そういう子たちは、前述の重度障害の成人入所者の世話を買って出る。自由に振る舞う彼らの当番を代わってあげる。「できる人ができることをやればいい」と言う。何て深い言葉だろうと思った。映画の中にあるようなひどい扱いや暗い雰囲気は全く無かった。みんなで作り上げてきた「暮らし」がそこにあった。

障害者の力の強さというのがある。遠慮の無い触れ合い。感情の発露。刺すような視線。あの感覚や熱を思い出しながら、『月』を観て、いくら数日間の実習で支援員として障害者と接したからといって、肉親に障害がいるからといって、私がこの映画を見て何かを得てそして過ぎ去るだけの人たちと何が違うんだろうと思うと、たぶん何も変わらないと思った。この映画に描かれる障害者の生活や姿にショックを受けない程度には知っているだけで、彼らの人生を背負う気は無い。障害者は「健常者が何かを得るため」に存在しているのではない、そうわかっていても、障害者をネタにした映画と、私が●●ちゃんを重ねて観ていることは、何も変わらない。私に言えることは何も無い。

それにしてもあの夫婦には初めから終わりまで腹が立った。二人のふわふわした会話にもイライラしたし、お互いがお互いに全く向き合おうともせず、「良さそう」な言動ばかりするのもムカついた。流されて「誰か」に評価してもらうための表現ばかりしているのも。陽子の洋子批判は気持ちの良いものだったが、彼女もまた他者からの評価に固執していて情けなかった。
さとくんだけが本気で生きていた。本気で考えて、計画を立て、執念に準備しているさとくんの理論を前に、泣きながら「私は認めない」って、笑ってしまう。自分の作品を馬鹿にされても最後はふざけて誤魔化すだけだったのに、作品と息子と障害者を結び付けたさとくんの理論に対して急に感情を荒ぶらせて殴って。感情でしか行動できない夫婦二人に、無性に腹が立つ。お前たちがどう思おうと、さとくんは自己表現のために実行する。本気の表現だ。
もちろん間違っているし許されない行動で、正当化したいわけではないが、自分なりに障害者と向き合って、考えて、結論付けた理論を確立している。彼の心はもはや、他人の価値観や評価だけでは動かないのに。
3歳で亡くなった息子と、大人になって社会から疎ましがられて人ならざる扱いを受けて隠蔽されてそれでも生きている障害者たちは違うじゃないか。「普通」の人からの暴力的な視線を、子供を子供として見ることはできても障害者を人として見ることができない「普通」の人の心の底からの差別を知らないから、そんなことができる。高城さんと自分の子供や肉親を重ねて見れるか?きっと誰もできない。でも、高城さんだって誰かの子供であり肉親なのだ。

墓場で妊娠の話をしたり、「夢みたい」な月が何度も登場したりするのは、映画というより劇っぽいなと思った。全部わざとらしかった。「森の中の障害者施設」がそうさせていたのかもしれなかった。あそこ自体が夢っぽく、嘘っぽくなるように。または、そう思いたいのかもしれない、私たちが無意識に。
最後、寿司屋のテレビにニュースが映ってるのを見たくせに、それをすぐに妻に伝えずに、夫婦の行事と薄っぺらい告白を優先させた夫。施設に向かう前に、薄っぺらい告白を返す妻。きーちゃんの母の悲鳴を聞いても、あの人たちはあれをやめないだろうと思う。ああやって生きることを。彼らにとっては結局どこまでも他人事だからだ。
でも彼らと私が、一体何が違うんだということを、ずっとずっと考えている。全ての境界線があいまいなのに、社会の中では明確に線が引かれる。

入管でのウィシュマさんの事件や、今起きているガザの虐殺、過去に日本含め世界中で起こった戦争とそれに付随するジェノサイドと同じだと思った。さとくんの行動ではなく、劇中の人たちの障害者への目線が。小説のネタにするのも、「楽しいから」てんかんを起こさせようと遊ぶのも、森の中に閉じ込められて「自分と違う」とされた「人間のようなものたち」を好きにしてもいい、とする感覚が共通している。そう思うとさとくんは、自己表現のために確立した理論を正当化するために、「しゃべれない奴は排除していい」と無理やり結論付けただけであって、感情はまた違うところにあったのではと思う。だから紙芝居を読み聞かせしていたのではないか。対話がしたくて。さとくんが化け物だったわけじゃない。さとくんだけが間違っているのではない。さとくんもまた人間であり、人間が起こした事件なのだということから、目を逸らすべきではない。
加賀乙彦先生『悪魔のささやき』『死刑囚の記録』や、直近で読んだ森村誠一先生『悪魔の飽食』を思い出す。鑑賞後一週間経っても整理のつかない感情のなかで、何が正しくて間違っているのか、何が人の道を踏み外させるのかを、きちんと考えたい。
みささん

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