寿司

月の寿司のネタバレレビュー・内容・結末

(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

2023年ベスト級。凄まじい。

原一男がキネ旬に寄稿してた本作の批評には、次のようなことが書かれていた。

辺見庸の原作に忠実に映画が作られるならば「殺される側」のきーちゃんと「殺す側」のさとくんが軸になるはずだが、架空の主人公である堂島洋子(宮沢りえ)とその夫(オダギリジョー)の「愛の物語」にしている…云々。

原一男の言わんとすることも肯定したい。つまり、障害者を含む「人間の生命の価値」を描くのならば、障害者を「劇映画上の小道具」のように扱うべきではなく、障害者を、テーマにおいてもカメラにおいても真正面からとらえなければならないといったことである。しかし、(これは原自身も述べていることだが)きーちゃんの障害者像(見えない、聞こえない、話せない、動けない)を映画化する方法としては(正確には、劇映画として成立させる方法としては)、『ジョニーは戦場へ行った』(1971)ぐらいしかなく、(これも劇映画として成功したとは言えども)「どれだけ障害者の主観を描いても、健常者の求める障害者像であって、決して障害者そのものの主観になり得ない」という事実から逃れることはできない。それが、この「生命の価値」といったテーマで映画(もとい物語)が作られる上での限界ではないかと思う。

そんなことを色々考えたが、私は原作には無い映画の凄さを感じた。「価値のない人間はいらない」という言葉に重ねられながら、オダギリジョーがアパート管理人のバイトでゴミ捨て場に貼りついたゴミを必死に取り除こうとするシーンや、夫婦で顔のない人形で遊ぶ穏やかなシーンの数々は、人間を「価値」や「意味」で測ろうとする「さとくん」への静かな抵抗が描かれたシーンである。ただそれはあまりにささやかでかつ弱々しい抵抗であった。しかしその、無意味で無価値な生命・人生を生きていくことこそが人間の姿ではないか。殺戮と暴力への拒絶は、別の殺戮や暴力ではないことを訴えるという点で、原作とは違った普遍性をもつ作品だと考えた。
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