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ママと娼婦 4Kデジタルリマスター版のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

 水辺に行く口実は何も果たさず、車に乗り込んではなかなか発進せず。声をかけては別の人を愛し…を繰り返す、そんな220分(長い)。

 ゴダールについての本なんかを読んでいると、よく「et(〜と)」という接続詞についての話が出てくる。映画とはそもそもカット同士が強制的に結び付けられるわけで、この問いは避けられない。今作の「La Maman et la Putain」という「ママ”と”娼婦」というタイトルにも、この問いをぶつけてみることは可能なのではないだろうか。何が言いたいかというと、今作のママと娼婦を行き来するアレクサンドルこそこの”と”そのものであるということである。つまりタイトルは主要人物三名を言い表しているのだ。行き来しじっとできないからこそ、今作は悔しいことにダメンズによって紡がれる。いや、”ダメンズこそ映画である”という暴論さえ成り立ちかねない。ジャン・ユスターシュ自身の自伝的要素を含むこともそうだが、まさに彼に映画というものがあって良かったなと思えた。これはきっと本や別の媒体では表せない、何せ映画すぎるからだ。劇中でアレクサンドルが語る「ムルナウ映画はパサージュ(移行)である」という発言も、今作がまさに移行のみに支えられた映画であることを物語る。

 にしても、彼らは自分が負った役目でしかいられない。そも恋人”ら”をママと娼婦という二分化で片付ける時点でダメ男すぎ…とも思えるが、社会(男性社会)が女性に強いる役割としての二大代名詞なわけで、ヴェロニカの「娼婦って何よ」と泣く姿には、その役割の責め苦が見て取れる。逆に男は”と”の役割を担い、どこにも居つけない不安定さを持つ者となる。「結婚」という定住を前に憂鬱な顔をするアレクサンドルには、定住が土台無理な話なんだろうなと思わされるわけで。あるシーンでアレクサンドルの唐突な正面カットの衝撃と、彼のにっちもさっちもいかなさ(「革命なんかでよくなるものか!...」)に同情さえ覚える。

 マイク・ニコルズの「卒業」(1967)と基礎は同じように思えた。好きな恋人とその母との狭間という構図や、最後に結婚を申し立てたあとの憂いまで似てる。
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