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ナチ刑法175条/刑法175条のchiakihayashiのレビュー・感想・評価

ナチ刑法175条/刑法175条(1999年製作の映画)
4.0
 ドイツ帝国の成立と同時に1871年に制定、なんと1994年まで存在した同性愛を禁じる刑法175条。備忘録も兼ねて、詳しく記録しておきたい。

 第一次大戦後の混乱が落ち着いてから1929年の世界大恐慌まではドイツでもつかの間の安定期で、リベラルで性にも寛容であり、「黄金の20年代」と呼ばれた。ヒトラーの盟友でナチスの突撃隊(私兵)の創設者で全国指導者だったエルンスト・レーム(1887〜1934)は同性愛者として知られており、ナチスの反対勢力が彼の性的指向を攻撃の理由とした際にもヒトラーは彼を擁護し続けた。
 1933年ヒトラーが政権を獲得。突撃隊を正規軍にするという野望を抱いたレームと国防軍が対立するようになると、1934年6月28日、ヒトラーはレームと突撃隊幹部、その他反ナチと見られる勢力300名近くを粛清した。後にこの事件は〈長いナイフの夜〉と呼ばれる。同じ日にナチスは刑法175条を改正し、違法となる同性愛行為の定義を大きく拡大した。ゲシュタポ(国家秘密警察隊)には同性愛の取り締まりに特化したユニットが創設されており、1933年に957件だった175条違反の有罪判決は1937年になると9244件に跳ね上がった。ゲイのドイツ人の多くは、ドイツ国民としてのアイデンティティがセクシュアリティよりも優先されると考え、「自分たちは大丈夫だろう」と思っていたという。

 1999年に制作された本作は6人のゲイと1人のレズビアンによる証言によって構成されている。

 ミシュリング(アーリア人とユダヤ人などの非アーリア人との混血)として生まれ育ったガッド・ベック。ベルリンで地下レジスタンス活動に関わり、ユダヤ人のスイスへの亡命を手助けしたり、同性愛の友人たちのネットワークを使って、避難民たちに食料や隠れ場所を提供したりしていたものの、戦争終結3ヶ月前にゲシュタポのスパイに裏切られ、移送収容所に監禁された。それ以前にナチスから逃れる手助けをしてくれた初恋相手について彼は熱を込めて語る。

 カール・ゴラットは26歳の時、別れた恋人に密告されてナチに逮捕され、強制収容所に送られた。囚人病院で働かされていたが、ポーランド人捕虜の食事量を減らせという命令に背いて、アウシュヴィッツへと送られた。そこでそれまでのピンク・トライアングル(男性同性愛者に付けられた識別胸章)から、政治犯を意味する赤い三角の印を付けられた。アウシュヴィッツで彼はある男性と出会い、恋に落ちるも、恋人は生き延びられなかった。

 ハインツ・Fは最初はこの映画で姓を明かさず、暗いシルエットだけの撮影を条件に出演を承諾したが、間もなく考えを変えて顔も見せることに。それは93歳の彼が、家族にも話せなかった自分の体験を初めて語ることのできた機会となった。

 ナチスは男性の同性愛を〝ドイツ国民を堕落させ、弱体化させる危険な病〟とみなし、強制収容所における同性愛者に対する公式政策は〈再教育〉であり、ユダヤ人でない者の多くがガス室は免れたが、その3分の2は死亡した。ピンク・トライアングルの囚人たちは収容所内ではピラミッドの最底辺に置かれ、断種や去勢などの人体実験の対象になった。自身、虐待や拷問、レイプも受けたピエール・ジールにとって最も辛かった体験は、親友で元恋人が生きながら犬に食い殺されるのを目撃したことだった・・・・・・。
 
 唯一のレズビアンの証言者アナッテ・アイクの家族は「ヨム・キプール(ユダヤ人の祝日)ユダヤ人」。つまりそれほど信仰は篤くなかったけれど、大切な祝日は祝っていた。両親はアウシュヴィッツで亡くなる。彼女自身は、レズビアンのクラブで出会った女性がイギリスに渡航するために必要な書類を手配してくれ、幸運が重なってロンドンに亡命、そこで以後40年を共に暮らすパートナーと出会った。

 「自然に反する猥褻行為」を罰する刑法175条で基本的に女性は対象外だった。女性はドイツ人の母となる〝産む機械〟であるからだが、とどのつまりは男性が「ちゃんとすれば」子どもはできると考えられていたからだった。言い換えれば、女性が性行為に決定権をもっているなんて想定されていなかった!!!

 自らの話をする前に亡くなる人も、撮影予定日当日に気が変わって「なぜインタビューを受けたくないのか」、その理由だけを話したがった人も。証言をプレス資料から引用したのは、これらがかろうじて記録が間に合った貴重な遺産だからだ。

 インタビュアーのクラウス・ミュラーは1959年、ドイツ生まれ。大学在学中にゲイであることをカミングアウト。1992年には米国ホロコースト記念博物館の欧州代表に就任。自身も同性愛を主題にした映画の監督を務め、『オランダのゲイとレズビアンの抵抗運動闘士の肖像』『ナチによる同性愛者迫害に関する最新研究』という著作がある。

 監督のロブ・スタインは1985年に『ハーヴェイ・ミルク』でゲイであることをカムアウトした監督として初めてアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞。その時からもう一人の共同監督のジェフリー・フリードマンと組んでいる。監督作品にはハリウッド映画が同性愛者をどのように描いてきたかを辿るドキュメンタリー『セルロイド・クローゼット』(1995)もあり、その劇場公開のためにアムステルダムを訪れていた際にクラウス・ミュラーと出会った。

 管見の限りでは、『セルロイド・クローゼット』で紹介された偏見とスティグマに満ちた同性愛の表象が刷新されたのは、2006年にアン・リーがアカデミー賞監督賞を受けた『ブロークバック・マウンテン』だと思うのだけれど、それをさらに刷新したのは2018年にジェームズ・アイボリーがアカデミー賞脚色賞を受けた『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督)ではないだろうか。少年の同性への初恋が夏の光のもとで輝くばかりに大切な出来事として位置づけられ、主演のティモシー・シャラメを一躍スターダムにのし上げた。昨年公開された『蟻の王』(ジャンニ・アメリオ監督)と『シチリア・サマー』(ジュゼッペ・フィオレッロ監督)はいずれも悲劇的な実話に基づいているものの、彼らの愛の純粋さ、逆に我知らず欲望を屈折させてホモフォビアに陥る周囲の男たちの描写などが心に食い込んでくるような秀作だった。ソ連占領下のエストニアを舞台にした『ファイアーバード』(ペーテル・レバネ監督)もいささか昔風の趣があるものの、同じ潮流を感じる。

 今回、本作のデジタル・リマスター版を配給するパンドラは、ハインツ・ヘーガー(匿名の著者名)『ピンク・トライアングルの男たち:ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録』の邦訳を早くも1997年に刊行している。

 ちなみにナチ版の刑法175条は東ドイツで1968年まで、西ドイツでは1969年まで有効であり、元の条項も東西ドイツ統一から4年後の1994年にようやく撤廃された。同性愛を理由にナチスにより殺害された人々が、その事実を公式に認められて追悼されるに至ったのは1985年。同性愛で有罪になった人々を赦免する法律が成立したのは2002年になってからだ。

 〈法〉は過ちを犯す。それがどんなに罪深いことかは、日本の旧優生保護法下で強制的に行われていた不妊手術の問題を見てもわかる。

 インタビューに登場したガッド・ベックは、戦後はイスラエルに移住し、第一次中東戦争に参加したようだ。そのイスラエルが行なっているピンク・ウォッシングを想えば、皮肉という言葉では言いあらわせない気持ちになる。パレスチナ人の人権を踏みにじってやまないイスラエルが〝LGBTフレンドリー国家〟だなんてことがあり得るのか? 仮にそうだとすれば、それは何を意味しているのだろうか?
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