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市子のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

市子(2023年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

どう語るべきか、なかなかに悩む映画だった。映画の側の整理がついていないからか、自分の読解力が足りていないからか…?自分でもよく分からないから余計に悩むのだった。。(笑)
自分が捉えあぐねているのは、一言で言うと「この映画には言いたいことがあるのか?否か?」ということで。

ひとまず、ストーリーを追っておくとこうなる。
本作の主人公は「市子」という女性(杉咲花)。彼女は彼氏の長谷川(若葉竜也)とつきあっている。そして同棲して3年目のある日、長谷川は「結婚してほしい」と市子に婚姻届けを差し出す。「うれしい」と涙ぐむ市子…。だが、彼女はその日を境に姿を消してしまう…。なぜなのか?長谷川は市子の足取りを追う。すると、衝撃の事実が次々と明らかになる。

市子は、いわゆる「無戸籍児」。母が父と離婚後300日の間に生まれた子供は”実際はどうであろうと”「前夫の子」となる。そのため「前夫の子」にしたくない母は子供の出生届けを役所に出さないケースがある。すると子供は「この世にいるのにいない無戸籍状態」に…。市子もその1人だった。

だが、それでは社会生活を送るのは困難。そこで、筋ジストロフィー障害の姉「月子」の戸籍を借りることに。こうして「市子」は「月子」として生きる。

しかし、その後、介護疲れから家族は「月子」を殺害…こうした過去が明るみになるのを避けるため、市子は、長谷川の元を逃げ出したのだった…。

では、市子は今どこに…そして、驚くべきラストが待ち受ける…というストーリーとなっている。

こうしたあらすじを読めば「無戸籍問題」なり、「筋ジストロフィーなどの難病介護問題」なり、言いたいことだらけなんじゃないかと、表面上は思える。

けれど、映画を観れば分かると思うが、制作チームは、法律の不備や、難病の実態に関心を持ってほしくて映画を作っているわけではないんだろうと分かる(関心を持つこと自体はもちろん否定しないんだろうけどね)。
つまりは、いわゆる「社会問題に関心もってよ!映画」ではないんだろうと。

だとすれば、何を言いたいのか?そう考えると、なかなか答えづらくなる。

なので、ひょっとしたら「快楽ファインチューニング映画」なんじゃないかと思ったりもした。

ようは、演劇系の脚本家や、ミステリー小説家にありがちな「時系列イジりの快楽(ex.この順で描いたら面白くない?)」や「予想裏切りの快楽(ex.ここで急に死んだら驚きじゃない?)」の追求で生み出された映画なんじゃないか?と。

また、杉咲花ちゃんを始め、演じている人が全員素晴らしいため、観ている間は映像世界に引き込まれる。それも「よくできている感」につながっている。

つまり重要なのは「ここでこうきたら気持ちよくない?」だと。だから「全体としてみた時に何かを訴えたいか?」とか、そういうものはないんじゃないか?と。

言ってしまえば、バラードでいくのかと思いきや、急に曲調が変わり、曲調が変わったかと思えば、また変わり…なんか聴いたことねえぞ!演奏レベル高えぞ!気持ちいい!…みたいな(本作プロデューサー陣がKingGuuと、もじったところのw)「キング・ヌーの曲」のような映画なのではないか?と(笑)

実際、「その線(快楽ファインチューニング批判)」でのレビューを書く人もいる。
たとえば、仮に家族が筋ジストロフィーになったとしても、支援団体なり、介護師なりの手を借り、福祉制度を活用しながらケアを進めていくことは十分できる、と。だが、映画はそれを描かない、と。家族の歯車が狂っていったというならどう狂っていったか描くべきだが「いろいろ大変だったのよー」で、済ませてしまうと。

その行間を「そりゃ、体の動かない難病の家族がいたら、行き詰まるっしょ!」みたいな「観客のステレオタイプの想像力」にゆだねてしまう、と。これは、危険ではないか?と。ちゃんと考えてないだろ!と。ごもっともだと思う。

また、「ケーキ屋さんになりたい」みたいな、「彼氏とおんなじ布団に入っていたい」みたいな「小さな小さな幸せ」ですら阻まれてしまう「かわいそうな女の子」というステレオタイプと、「欲望のためなら手段を択ばないファム・ファタル(悪女)」というステレオタイプをかけあわせて「そういうのが好きそうな観客(男)」を「ハアハア」させたいだけなんじゃないか?と。

自分はそこまで「厳しい目」では見てないが、、、言わんとすることは分かるは分かる。

ただ。だからといって「中身のない映画」だと一刀両断する確信もない。
というのも、映画は「アイデンティティ」について「何か」を描こうとしてるのだとは思う。けれど「じゃあ何を?」と言われるとスパッと感想を言いづらいのだった。

いや、自分は観賞中、途中まではこういうことなのだろう…と思っていた。

映画では、寄せては返す波や、「ショーシャンクの空」ばりの突然の雨が印象的に描かれる。そして大雨の中、主人公の市子は言う。「すべて流されてしまえばいい」。

だとすれば、言いたいのはこういうことではないか?と思った。つまり、人は究極的には「月子だろうと市子だろうとどうでもいい」のだと(注1)。

たぶん「自然状態」を生きる人にとって、「アイデンティティ」などなくても何とかなったのではと思う。別に名前や戸籍や「自分とは〇〇だ!」などなくても、食うことも、服を着ることも、家を築くことも、寝ることもできる。つまり生きていくことはできる。

けれど。「名前や戸籍」があった方が「よりよく生きられる」ではないか?と。つまり「誰は誰の息子だ」とか「何は誰の所有物だ」などが決まっていた方が、トラブルがあった時に、処理しやすいと。法律で裁きやすいと。

こうして「進化した社会」が回っていく。しかし、一度、社会が回り始めると今度は「何ぃ~!?名前も戸籍もないのか!?」「大問題じゃないか~!」となってしまう(笑)しかも「大問題」にしたのは「処理しやすい」といって作られた「法律」のせいだったりするのだった…。

だとすれば「おかしい」のは何なのか?戸籍やアイデンティティがないことなのか?それよりも「戸籍やアイデンティティがないとおかしい」という事にしてある「社会」の側に「おかしさ」があるんじゃないか?と。

そんなふうにして揺さぶりをかけて、一度、「社会が流された場所」に観る人たちを連れて行こうとしている。そういう映画なんじゃないか…と。

言ってしまえば、こういうことじゃないか?
人は裸でも生きられる。だが「服を着た方がより生きやすい」として皆服を着るようになった。すると「裸であること」が大問題となる…ここには何か滑稽さがないか?と。そんなことが言いたいんじゃないかと思ったのだった。

だから、映画で主人公が言う「私は市子として生きたい」もラストで意味が反転していくのだろうと思っていた。

つまり、主人公は前半部分では「アイデンティティにこだわる」意味で「市子として生きたい」と言っていたが、ラストに来ると意味は反転。この世に存在しない亡霊のような「市子」として生きていく(=アイデンティティにこだわらず生きていく)になるんだろう…と。

けれど、違った。。映画は、ラスト、自殺志願者の冬子を殺した後、彼女の戸籍をゲットして生きていく市子の姿を映す。彼女が歩いているのは緑の木々が茂る小道。「自然状態」が強調されながらも、彼女は「戸籍(社会)」にこだわっている。

これはどういうことなんだろうか…?と思った。

いや、月子でも、市子でも、冬子でもいい、という意味で冬子として生きていく様子を描こうとしているのか?それとも別の意味があるのか?

いや、そもそもの理解が違うのかもしれない。人はアイデンティティなしでも生きられるが一度社会ができるとアイデンティティにこだわってしまう。そこに囚われてしまう。だから市子も「市子でいたいのだ」という考えに囚われていったのだ…ということを描こうとしてるのかもしれない。

けれど、だとしたら、なぜラストは冬子で生きるのか?「市子で生きたい」にとらわれるなら、無戸籍児を生み出す今の法律を変えるため動き出すべきじゃないのか?

だが、映画は冬子として生きる市子を映し出す…。

ここにきて、自分は、どう語っていいかよくわからなくなってしまうのだった…。

ネット用語で言えば、「←イマココ」という感じ…(笑)
今の自分の感想を言えば、こんな感じなのだった…。

(注1)
なぜ、こう言うことを書いているかといえば自分は「アイデンテティ・ポリティクス」という考えに究極的には「ノレない」からでもある。
「『アイデンティティ・ポリティクス』とは、共通するものを持った人々が共通の政治的目標に向かって結束することを意味する。イデオロギー、年齢、性別や地理など何でも共通のアイデンティティになり得る。」(←アジア経済研究所HPの説明)。
自分はアイデンテティといっても一貫しないものだし、変化しうるものだと思っている。けれど「自分とは●●だ!」に縛られていくと、そのことが見えなくなってしまう。そもそも「ガチっとしたもの」でもないものに縛られていくというのは、どうなんだろう?と思っている。
ただ、それを言うには段階があって。各(集団の)アイデンテティが平等であることが前提であって。例えば、映画のように「戸籍がある人」と「戸籍がない人」に平等な権利がないならば「戸籍がない人たち」が結束して「我々戸籍がない人にも平等を!」と言わねばならない(言葉を白人と黒人に入れ替えた方がより分かるかもしれない。)
だから、この段階で「いや、アイデンテティなんて一貫しないものなんだからさぁ」とか言ってしまうことは「そんな凝り固まって結束しなくていいじゃん」=「今の状態に甘んじろ」ということにつながってしまう。
なので、平等がない段階での「アイデンテティポリティクス」を軸にした運動は肯定した方がいいんだろうとは思う。が、「究極的には」さっき書いた理由で「ノレない」。本作は、そこに迫るものでもあるのかな、、と思ったりもしたので、こういう事を書いたのだった。
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