デパルマ

悪は存在しないのデパルマのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
3.0
 『ドライブ・マイ・カー』(21年)ぶりの監督濱口竜介とシンガーソングライター石橋英子による共同プロジェクト。濱口竜介は本作でカンヌ、ベルリンに続いて世界三大映画祭制覇という快挙を成し遂げた。
 グランピング事業者と地域住民、都会と田舎、デジタルとアナログ、人間と自然の対立を、穏やかでありながら不安げな現代音楽と素人俳優の無機質な演技で淡々と描いている。舞台は長野県の高原だが、監督が見つめるのは人間を含めた生態系そのものだ。前半、主人公の巧は娘の花と鹿の通り道を歩きながら、猟銃の音を聞き、朽ちた鹿の骨を見つける。ウコギは食べれるが棘がある。ウリハダカエデは鹿の食害に強いが鹿の頭数が増えすぎると食べられてしまう。「キュウリみたいだから(鹿にとって)美味しいのかな」と花が言うと巧は複雑そうな顔をしてその場を立ち去るように促す。鹿は決してウリハダカエデが美味しいからではない。それしか食べるものがなかったのだ。実際にコロナ禍の2021年ごろから鹿が市街地にあふれ出す被害が目立つようになった。
 一方、グランピングの建設説明会では、「問題はバランスだ」「上流の方でやったことは必ず下に影響します」と住民たちが口にする。グランピング事業者に透けて見えるのは、オリンピックや万博開発、米軍基地、あるいはコロナ対策などの大きな上の判断。そしてそれらに踏み潰される下流の被害(辺野古や都営霞ケ丘アパートは良い例)は明らかに政策による人災であり悪だが、津波や地震などの自然災害を同じように悪とは呼べまい。という、やや単純化された自然観にこの映画は基づいている。
 ヴェネツィアでは『理想郷』(22年)や『ヨーロッパ新世紀』(22年)と同じような、「異なる意見を持った者同士の相互理解の不可能さ」を描いた一種の不条理として評価されたのだろう。世界のバランスを壊そうとする者は何なのか。タイトルの意味は何なのか。前述した前半のシークエンスが予期していたように、あるいは人間と半ば同化した自然の生態系が本来そうであるように、予想外のクライマックスもまた、複雑でやりきれないものでしかあり得ないのだ。
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