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悪は存在しないのKEKEKEのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
5.0
年初に行ったグランピング施設を思い出した、そういえはあの時たらふく食べた肉やビールを凝縮した私の糞尿はどこへ行ったのだろう、適切な処置をされ、近隣住民の合意がとれた方法でまた誰かの生活用水にでもなったのだろうか。
いつから私は「グラマラス+キャンピング、略してグランピング」などという、酒を飲んだ大学生が深夜に思いついたとしか考えられないほど醜悪で、人間主義的資本主義の悍ましさを体現するかの如く独善的な通称であしらわれたアクティビティを受け入れていたのだろう。
スクリーンに映し出されたスクリーンの動画を見てその滑稽さに初めて気付かされた。
そんなものは(私の感覚では)本当にいつのまにか世界に存在していたもので(初めてその呼称を聞いた時はなんの略なのか気になって調べた記憶はある)、気付かぬうちに社会に浸透して、そして気がつくとそこに行こうという話題が私たちのDiscordのチャットルームで立ち上がっていた。
しかしグランピングと呼ばれるものがこの世界に存在するからには、その実誰かが企画書を書いて実際に人が動き、何らかの意思決定が無数にあり、それによって刺激された消費者行動が徐々に大きくなり、諸々のプロセスを踏んで私の元へと届いているはずだ。それなのに不思議なことに、どう考えても私の知らない間に、私の世界にあたりまえに存在していたように感じる。

そして正直な感想を述べるとグランピングは私にとってかなり豊かな体験だった。
山の中に突然建築されるグランピング施設がその周辺の生活者にとって異質に見えるように、都心で暮らす我々にとって自然こそが不自然で、それ故グランピングが非日常のアクティビティとして完全に成立してしまっているからだ。
何が自然で何が不自然かの線引きなんて個人の中にある慣れの感覚が決定しているだけで、田舎出身の私が郷愁や故郷の感覚すら忘れ、今となってはむしろ年に数度の帰省こそが非日常になっているように存外適当なものなんじゃないだろうか。
オープニングに映る美しい景色の中で佇む少女や、木を切断するチェンソーの音、薪を割る慣れた仕草、それらよりも、筋の悪いビジネスに付き合わされる2人のビジネスパーソン、お上からの理不尽な要求、上司のつまらない身の上話、マッチングアプリの通知の方が余程、ナチュラルで身近な事象に感じるのだ。
さらに言えば人間中心の社会全体からすればその両者の存在すら自然で、特別に議論されるべきテーマとしても、是正が必要な問題としても扱われない。
現に"そう"で、既に"ある"ものだ。
しかし例えば新しい土地に行ったとき、その土地は実は既にずっとあるのだが、全て自分が観測した時に初めてそこにあったものとして認識される。
それは元々そこにあったのだから、何らかのプロセスを経て存在しているはずで、何か理由があってその土地について知りたいと願う場合には実際に食べたり飲んだり住んだり聞いたりする必要があるはずだが、多くの人間はそのようなことをしたがらない。

物語の中心となるのは既にそこに住んでいる人々と、そこにやってくる人々。町の人々は既に存在する土地や水を愛し、慈しみ、恵みを享受している。
そしてその場所のバランスを崩さないよういくらかのルールや秩序があり、そうした営みや努力の蓄積によってまた当たり前の恵みを享受できている。
外からやってくる人間においても例外ではなく、新たに利害や立場の違いなどの関係性の問題により生じる課題があるのみで、重要なのはたくみが言うように各々のバランスをとることである。
水が高いところから低いところに流れるという地球の物理法則、自然の摂理の強力な影響を私たちは常に受けていて、その法則の中で限られた資源を共有する以上ルールが必要だというだけなのだ。

それにしてもオープニングから「水は低いところに流れる」というセリフまでの世界観の構築や、人間関係の描写、音楽と景色のバランス、一切無駄が無いとしか言いようがない。実際私は町長のそのセリフに付随する生活の重みとリアリティに耐えかね、序中盤にしてさめざめと泣いてしまった。

この作品は巧の生活も高橋の葛藤もどちらも自然に、リアリティのあるものとして描いている。濱口監督が見たものや、そこにあったものを、できるだけ純粋に撮ったのではないかと思う。
水のように、当たり前にそこにある景色として体の中に入ってくる新鮮な映像だった。

以上を踏まえて、ラストシーンの巧の行動についてわかった気になることは重要だろうか、もはやそれを考えることすら意味がないのではないだろうか。
私たちは高橋らと同じ水準でしか彼やこの町のことを知らない。
綺麗な水が沸き、そこに住んでいるいくらかの人々がいる。巧が薪を割り、水を汲み、娘のお迎えを忘れる。
彼が高橋を殺さなければならない理由がそこにあっただけではないのか。
喪失なのか怒りなのか憤りなのか混乱なのかプロセスを知らない私たちが知るところではない。
しかしグランピング施設建設予定地に現れた手負の鹿は、巧の喪失と怒りの鏡写しに見えて仕方がない。
巧の妻はどこへ行ったのだろうか、彼は人生において何を得て何を失ったのだろうか。
娘はまるで自分たちそのものを写した鏡に吸い込まれるように鹿の親子へと近づく。その傷に触れようとする娘が、巧の目にはどう写っていたのだろうか。
人を殺すに足る動機とは一体なんだろうか。
ラストシーンは「なんか知った気になってなかったか?この町を、巧を分かってきた気がしてなかったか?」と濱口監督が自らに問い直し、自己を通過した問いを改めて観客に投げ込んでいるのではないか。

高橋の一挙手一投足、全て上滑りしてしまうあの感じの表現も見事だった。
まるで演出が介入していないかのような(むしろ緻密に設計されているからこそ)演技と周りの反応、空しさ空虚さの描き方とその可笑しさ。
従来の物語では部外者との対立から積極的な介入、共同作業を経て和解、受容といったカタルシスが王道であったが、今作が描くその結末は死である。
そしてその結末にそれほどの意味はないのではないかと思ってしまう、高橋の人生は物語などではなく世界のバランス調整でしかないのではないか。
人の痛みについて分かった気になる、自分の経験に適用できる気がする。相手が物語を欲している気がする、自分の決断が相手の物語の構成要素になっている気がする。
生と死は平等で、それほど意味がない。
自分の賽の一振りが大きな物語の流れの中にある気がして、そしてその物語をこの世界が欲している気がするが、そもそも自分の人生に意味があると思うことすらヒューマニズムが見せる幻想だ。

ただ今朝自分がした糞は絶対に本当だった、かなり大きかった、私の内臓を通過して外に出た、それだけは確かだ。
これは所謂肌感覚の問題なのだ、
そしてそれを処理する施設がこの街のどこかにはあるだろう、私は私がした糞の責任者として、それがきちんとした手順で処理されているか確認するために下水道の行先を調べて、下水処理施設を訪ねることができる。
しかし私はそうしない、何故なら用を足すたびにそんなことをしていては私の生活が破綻してしまうからだ、それが私のリアルだ。
最近、生産者の顔が見える野菜の欺瞞について考えた、スーパーで生産者の顔が見える野菜を手に取り、よし、顔が見えている、安心だ、買おう、という消費行動をとる人間は恐らく存在しない、少なくとも私はそうしない。
あれが見せるのは物流が短絡した距離と時間だ、近所のスーパーに行けば当たり前にそこにあると認識していたものが、なんと実はどこかで誰かによって作られたものであったのだ!という、付加価値だ。
元々あったものを、隠したり見せたりする、子供騙しのいないないばあだ。
人間だって元々は自然の中で採集とかして暮らしていたのではないか、大規模定住社会の恩恵を享受する我々はもはや、その自然こそが非日常なのだ。
悪が存在しないならば善も存在しえない。
でも糞尿は存在する。
生きることも死ぬことも同じだと思った。
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