耶馬英彦

悪は存在しないの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.0
 森のシーンがとても美しい。殆どのシーンのBGMは重厚な弦楽四重奏だが、一度だけ、タクミの娘のハナがひとりで歩くときはシンセサイザーの電子音が響き渡っていた。メロディラインに無理がなく、森をはじめとして、自然を描くシーンにはクラシック音楽が一番よく合うと思った。石橋英子はロックやポップスのジャンルとされているが、本作品のようなクラシック調の音楽も作れる。凄い才能だ。
 もともとは音楽に合わせて濱口竜介監督が映像を製作したのがはじまりらしい。そして自ら製作した映像と音楽にヒントを得て、森で暮らす人々を見舞うエポックメイキングな出来事を想定し、映画にしたのが本作品という訳だ。

 タクミは薪を割り、タンクに湧き水を汲む。学童保育の場所に自動車でハナを迎えに行くが、時々失念して、歩いて帰るハナを探すことになる。淡々としているように見えるタクミだが、地元の歴史や行く末について、自分なりの考えを巡らせている。それはこの森に暮らす人々の誰もが同じだ。時間に追われ、仕事に追われ、不安と恐怖に追われる都会に暮らす人々は、住んでいる地域の来し方行く末など、あまり考えもしないだろう。その場所で商売をしている人たちは、少しは考えもするだろうが、主に今後の商売についてである。その場所での商売がだめになったら、別の場所へ引っ越すだけだ。
 しかしタクミたちはそうはいかない。火も水も土地から貰っている。人間として生きている以上、自然も破壊しているという自覚はある。しかしなるべく自然を壊さないように努力している。土地が汚染されれば、自分たちも汚染される。命に関わる話だ。都会の人間は、多分そこが分かっていない。
 ただ都会には都会の苦労がある。カネがなければ水も飲めないし、人間関係は薄く、しかもややこしい。誰もが他人より優位になろうとする一方で、誰も責任を取りたがらない。顔を合わせるよりもソーシャルメディアを優先するから、言葉も軽くなる。同じ空間にいる安心感や、行間を読み合うといった、身体感覚の関係性がない。互いに疑い合い、損をしないように身構える。

 みんな一生懸命に生きているだけだ。なのにだんだん悪くなる。切羽詰まれば犯罪に走るかもしれないが、いまは踏みとどまっている。不安で、もどかしい。しかしそんなふうに生きるしかない。それがいまの世界だ。

 鹿のエピソードは秀逸。解釈は観客の数だけ存在する。自然は美しい。自然は厳しい。そして自然は理不尽だ。
耶馬英彦

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