イスケ

悪は存在しないのイスケのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

人の心に巣食う内なる「悪」が存在するのではなく、バランスや調和が崩れた「状況」が人に悪のような行動を取らせてしまう。
問題のラストシーンまで含めて、そういう話だったなぁと。


「上流での行いが下流へ影響する」

合併浄化槽の設置場所を巡る意見交換の中で、住民たちはそのように反論します。
しかし、ただ単に反論するだけではなく、巧は「自分たちも元々はよそ者だ」と認めた上で、「バランスが大切なんだ」と都会からやって来た高橋たちを説くわけです。

この「水の流れ」の話。実は「時の流れ」にも言えることなのではないかというのが、まず考えたことです。

元々はただ自然がそこにあっただけ。
その中に鹿をはじめとする動物たちが暮らし始める。自然にとって動物は敵でもあるわけですが、それでも調和を取りながら共存していく。
さらにそこに人間が住み始める。蕎麦屋を開いた都会出身の女性も入ってくる。そして高橋という天敵になり得た人間も入ってこようとしている。
こうして時の流れに伴って、新しいものを受け入れながら、現在もうまくバランスが取れているんですよね。


物語の中では、「鹿を撃つ銃声」がとても印象に残ります。
都会の人間の身勝手に憤る田舎の住民たちも、鹿の視点で捉えたときに果たしてどんな存在でしょうか。

巧たちの会話や反応から、鹿を殺すことはただの日常でしかなく、命を奪っていることに対してほとんど感情が動いていないように感じます。
一方で、都会からやって来た高橋たちは銃声に驚き反応する。少なくとも鹿が死んでいるところを見て、感情が揺れ動くのは都会の人間の方でしょう。

だからと言って、巧たちが冷酷で高橋たちが実は純粋だと言いたいわけではありません。
実際にその場に足を運ぶ、さらにその場に長く滞在してみる、そして暮らしてみるというプロセスを踏んでいくうちに、情を伴った形でその場所に最適化されていくということです。
その最適化を言い換えると「バランス」や「調和」という言葉になるのだと思います。

一番のクズのように映ったコンサルの男も、彼は彼で社会における自分の役割を果たしているに過ぎない。
現地の人と触れ合っていないし、高橋たちとですら直接会うわけでもなくモニター越しに机上の空論を述べるに留まっているという最も巧たちから遠いところにいる存在だったわけです。
彼が現場担当者であれば、高橋と同じように心に変化が生じた可能性は普通にありますよ。

自然から見れば、森林を痛める鹿を狩ってくれる人間の方が正義でしょうし、複雑に入り組んだ関係が調和することによって、安定をもたらしているのです。

一方が「善」で一方が「悪」なわけではなく、それぞれのレイヤーによって当たり前が変わる。
よく「都会の人間は冷たい」と言われたりしますが、そのレイヤーで暮らしやすい最適な行動をしているだけに過ぎず、冷酷非道な人間なわけではないですから。そこに悪は存在しません。


それを踏まえて、問題のラストシーンの意味がなんだったのかを考えます。

個人的には、巧が話した「鹿が例外的に襲ってくる条件」の話が重要だったのではないかと。
「手負いの鹿かその親であれば襲ってくることもある。でもその可能性はない。」というやつですね。

鹿の死骸が映し出されるシーンも印象的でしたが、あれがまさに襲ってくる条件の話とリンクしているのだと思いました。
つまり、ラストシーンで登場した鹿はあの死骸の親だったと考えるのが自然ではないでしょうか。
平たく言えば復讐なんですが、巧の娘を貰っていくことで「お互いさま」として、バランスを取ったようにも見えます。

これまでも行われてきたことなのに何故このタイミングで?
他にも山に子供はいるのに何故巧の娘の花が選ばれたのか?

そこまで考えると着地点が難しいのですが、高橋の存在が引き金になったような気はしますよね。

「その時、鹿はどこに行くんだ?」「どこか別の場所に行くんじゃないですか」

あくまでも寓話的に考えれば、この会話を鹿が把握していたと考えることはできます。
こんな浅はかな人間を受け入れようとしている巧に対して、バランスを取ることを求めたのかもしれません。
もしくは、鹿にとってこれ以上の災いをもたらす存在は認められないとして怒りを買ったのか。

どこか別の場所に行こうとしているのは実は高橋も同じです。
さも名案であるかのように山への移住を考え始めていますが、彼の思いつきに過ぎないのは言うまでもない話。

「体があったまります」「それって味じゃないですよね」

このやりとりには劇場で大いに笑いが起こりましたがw、要はこういう本質を捉えられない人間なのですよ。
花を探し回る時も巧にずっとくっついてるのはポイント稼ぎだとしか思えませんし。お前は別のところを探せよ。

鹿からすれば、高橋の山に対する情熱が冷めた時に、いずれ調和を乱す存在だと見たのかもしれません。


このラストシーンが表しているのは、メインテーマであると思われるバランスの脆さではないでしょうか。

バランスというものは、元々そこに存在したものの我慢や妥協や寛容で成り立っている側面があります。
それは、お互いが努力を怠ればいとも簡単に崩れるということでもあります。

戦争がなくなるどころか各地で火種が火花へと膨らんでいる現状を見れば、いかにバランスが繊細であるのかが一目瞭然です。

鹿の堪忍袋の緒が切れたとき、それまで保たれてきた繊細なバランスが崩れ、連鎖的に巧の精神状態も崩れた。
生贄のように鹿に娘を奪われた巧が、今度は高橋の命を奪おうとする様子は、先に存在していた者が後から来た者を寛容をもって受け入れてきた歴史の流れを逆流させているようにも見えました。


一部海外メディアが唐突なラストシーンがそれまで描かれてきた物語のバランスを崩しているという評価をしているそうですが、最後のアレがなければ、

「高橋という男も住民との交流の中で田舎のことを理解しました。実際に人と触れ合うって大切だよね。」

というただの調和の話になってしまうわけで、表面的なところをなぞって終わってしまうでしょう。巧のバランスが崩壊するラストがあってこその作品なのに何言ってんだと思います。


どれほど長期に渡る関係を築いていて、一緒にいることに慣れている相手であっても、決して怠ってはいけないものがある。
レイヤーの最小単位は家族であり、もっと細かく分割すれば自分自身が最小単位とも言えます。

レイヤーが異なれば、心の中に持っている大切なものや価値観は異なるのだから、繋がりのある人に対してバランスを取ることへの注意は未来永劫払い続けるべきだよなと。
この物語を自分ごとに落とし込むならば、そういうところだなと感じました。
イスケ

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