浦切三語

悪は存在しないの浦切三語のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.4
感想【動画版】
https://youtu.be/t01s4n5QyLw?si=pDk9m0YryGflCQBV

自然豊かな土地で暮らす地元住民たちと、コロナ禍の補助金受給を背景にグランピング施設の建設を目論む芸能事務所の人間たちとの対立や融和を通じて、自然と人間の共生であったり、それぞれの立場を越えたコミュニケーションの大切さであったり、人間社会の法律に抵触していないからといって、利便性ばかりを追及することは果たして正しいのか……など、「自然と人間」という非常に「馴染みのある」テーマを映画の表層に配置して、キャラクターたちの対立軸を明確にすることで、非常に「観やすい」物語の流れを獲得している。これまでの濱口作品のなかでも取り分け「飲み込みやすい調子」で進む物語は、台詞を効果的に配置した脚本や、濱口流ともいえるカメラワークなどの効果もあって、個人的には飽きずに鑑賞することができた。

そう、ラストシークエンスで待ち受けている、壮烈な「観客に対する突き放し」を観るまでは。

途中までは『Perfect Days』な調子で進んでいたはずなのに、とてもわかりやすい調子で物語が進んでいたはずなのに、ラストシークエンスで急に『カリスマ』のヲチを見せつけられた気分。映画そのもののジャンルが変わってしまったかのような、最後の最後ですべての観客を「徹底的に突き放している」ラストシーン。それまでの物語の骨組みをすべて瓦解させるような、あるいは助走もつけずに遥か遠くまでジャンプしてしまったような。そんな呆気なさとやるせなさと、狐につままれたような途方もない感覚が同時に押し寄せてくるこの映画のラストにこそ、この映画のタイトル『悪は存在しない』の意味が込められているのだと思う。

たしかに、この映画に悪は存在しない。芸能事務所の社長やグランピング事業のコンサルタントは、一見すると悪人っぽく見えるけれど、彼らは市場原理の法則に囚われた、ただの愚か者に過ぎない。グランピングの説明会にやってきたあの社員たちにしても、彼らは仕事で住民たちの説得にあたっているのであり、そこでどれだけのことをしようとも、悪にはなりえない。

地元住民たちも悪ではない。かといって善でもない。彼らは自覚している。自分たちが自然を破壊して生活用水や薪を確保していることを。説明会のシーンにもあった通り、地元住民たちはなにも「自然を大事にしよう」と言いたいのではなく、「バランスが大事なのだ」ということ、ただそれだけを念頭に置いて生活している。

バランスが大事……その言葉は、この映画の途中までの展開そのものにも当てはまる。地元住民と芸能事務所の軋轢は、わかりやすい対立軸とわかりやすいドラマの構築で「バランスよく」組み立てられており、ともすれば「よくある社会派映画」に堕する危険性を孕んでいる。そしてこのような「バランスの良い作品」は時に、観客の思考を単純化させる。この映画がいくら『悪は存在しない』というタイトルを冠していても、徹頭徹尾バランスのよい「わかりやすい物語」としての体裁を貫いたのなら、私を含めた多くの観客は「グランピング業者が悪い」「いや、地元住民が頑固なんだ」「自然を大切に」「文明を否定するな」とか、単純で唯物思想的な感想を吐くのだろう。そして、そんな単純な回答を手軽に得るために適したデジタルなツールたちが蔓延している世界で、相対する極端な単純回答の「摩擦」のようにして「悪」は生まれてくる。いわば、バランスの取れたわかりやすい物語こそが、それぞれの「悪」を醸成させるだけの土壌としての最大火力を持ち得てしまうのが、私たち観客の暮らしている現実の姿なのだ。

だからこそ、この映画はラストシーンで観客を突き放す必要があった。観客の「こうくるだろう」「こうはならないはずだ」という予想を越えるところに着地する必要があった。この映画では「水は低きに流れる」の逆を行く必要があった。

それこそ、私たちの生活を取り囲む風や海や大地が、人間の頭上を軽々と越えて、予想だにしない姿をときおり見せるかのごとく、この映画は「ぼく、わかりやすい映画ですよ」って表情でいながら、最後の最後に牙を剥く。中盤過ぎまでの「わかりやすい人間ドラマ」を放り投げて、唐突ともいえる「複雑なラスト」を用意しなければならなかった。

ラストの複雑さでもって、観客の中に導き出されつつあった答えをハンマーで粉々に砕き、唖然とする観客たちに背を向けて霧の中に姿を消していく濱口竜介。これまでの彼の作品の中で、もっとも面白く、もっとも挑戦的で、もっとも「安心させてくれない」、個人的には文句なしの傑作である。
浦切三語

浦切三語