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悪は存在しないのsssのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

待ち侘びた公開の日を迎え、映画館に駆け込む。
若い人もちらほら居て、うれしい気持ちになる。

冒頭の薄暗い空を背景に、黒々とした木々たちが過ぎ去っていくショットから、何かが始まる気がした。
美しい自然に囲まれた、ゆったりとした暮らしが写しだされる。
自然の美しさのみを描いた映画も多いなか、なにかこのままでは終わらない不吉な感じ。
タルコフスキーのような水の音の美しさに、ジャック・ベッケルのような作業音の生々しさが織り重なり、心が揺さぶられる。
石橋さんの音楽が素晴らしい。
自然の映像の美しさに、このなんとも説明しがたい繊細で不吉な音楽が混ざり合う感じ。音楽から生まれた映画というのを、まさに感じた。

最初、濱口映画によくある、「人と人」のぶつかり合いにより、この不穏さが映画に立ち現れる、と感じていた。
でもそうではなかった。
この映画で濱口監督は、「ハッピーアワー」をはじめとした「人と人」を描いた映画から、「人と人以外のもの」、この映画では「人と自然」を描くステージに歩を進めていた。

その不穏さは自然との関係に着地していた。
なにかのインタビューで、「この映画で、初めて映画というものを撮った感じがした」と監督は答えていたが、その意味がどことなくわかった。
これまでの作品は、人が映画を動かしていく作品であると感じられたが、
この映画では、 映画という作品の中に人が存在している感じがするからだ。
そして、「人と人」という構図の作品では、わずかに差す希望を示し続けてきたが、この作品ではただ問いが与えられ、未熟なまま完結する。
それは監督自身の価値観によるものだろう。「人と人」に対する希望と、「人とそれ以外のもの」に対する諦念。それがひしひしと感じられた。
そんな「人と自然」との関係。自然に対する畏怖がこの映画の核なのだと感じた。それは色々と解釈が生じているラストシーンに着地する。
巧はエドワード・ヤンの映画でいう、ヤンヤンのような、人として映画に存在するものではなく、ストーリーを手助けする、すこし人間離れした映画装置(本作で言うと自然に近い存在)として性質が感じられた。
そして花も、巧以上にそういう存在なんじゃないかと感じた。
「ドライブ・マイ・カー」で画面を移ろった赤い車。瀬戸内の海や、北海道の冬。そのキャンバスに、赤い点が移ろい続け、家福の喪失と再生をフレームに漂わせた。
この映画でも、長野の自然のキャンバスに、花の青い点が移ろい続け、自然の美しさと恐ろしさをフレームに漂わせる。
そういう意味では、「ドライブ・マイ・カー」の車と、本作の花は似ている。
濱口監督は、やはり色遣いが上手い。そしてロングショットも抜群だ。何かのインタビューで見たが、「ドライブ・マイ・カー」の車のロングショットは、キアロスタミの車のロングショットを意識しているらしい。

自然の美しさと、恐ろしさ。
全ては「バランス」だ。やりすぎたら壊れてしまう。
この映画も、美しさと恐ろしさの間を行き来する「バランス」を感じさせる。
濱口監督による新境地の「映画作品」だ。

【追記】
監督の言葉を載せておきます。
「彼自身が生きてきた人生と、あの瞬間の偶然みたいなものが、彼にああいう行動を取らせているんじゃないかと考えています。あの瞬間に、タイトルと物語の緊張関係がもっとも高まります。劇中の高橋のラストのセリフは観客の疑問でもあると思いますが、その答えは与えられることはなく、高橋も観客もなぜこうなったのか自問するしかない、という構造です。

翌日観に行った「星野道夫展」にて、エスキモーの顔つきが、巧に似ていた。彼が自然に近い存在だという解釈を強めた。
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