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悪は存在しないのもじぱんのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
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「悪は存在しない」というタイトルはキャッチーに人を惹き込むような、ある種のいやらしさがある。
タイトルに込められた意味を観ている間ずっと考えさせられる作品というものはあって、鑑賞中はその謎を解くための時間になる。この作品もそんな映画の一つだ。
「悪は存在しない」と断定するがどういう意味か?鑑賞前に予告を観た時点である程度の予測はできる。また映画の序盤からグランピング場建設の話が出てくるあたりでもその予測が一つ立ってくる。
即ち都会と田舎、人と自然の対立構造の中で、その対立を解消する答えはなく、誰もがただ誠実に生きているに過ぎない。という解釈。
ただこの普遍的なテーマについては明確に否定ないしははもっと進んだ解釈があることが示唆されている。「明らかにこいつらが悪だろ」という登場人物が都会側に用意されているのだ。彼らの内情も描かなければ単純な二項対立の構造がもたらす結果に正も悪もないという帰結には至らない(勿論もっとマクロに資本主義や経済政策の構造までズームアウトすればそう解釈することも可能だが)。

序盤の見せ場であるグランピング場建設の住民説明会。会話劇がとても巧みでその面白さに一気に引き込まれる。直前までの穏やかな自然風景と打って変わってグッと緊迫感が生まれる面白いシークエンスだ。
そこで「先生」は「上流から下流への影響は免れない。上流にいる者は下流にいる者に配慮する義務がある」と語る。どうやらこれがこの作品のテーマと深く関わりがあるようだ。
この作品は冒頭からずっと「(水のような)流れ」「上下運動」といったモチーフが多く描かれる。石橋英子の音楽と共に流れる空の風景などはかなり印象的だし、その後も頻繁にカメラは流れ続ける。水は上から下へ流れ、下流は上流の影響を受ける。この原理は絶対に覆せない自然の摂理だ。
ノブレス・オブリージュとも似ているが、おそらく「先生」が言う意味は少し違う。単に道の前後に居合わせいる者同士の因果関係といった意味合いで、そこに上下関係はないように思える。
そしてその義務を果たさない者こそが「悪」なのだということが言外に示唆される。確かに「生まれながらの悪」は存在しない。ただ「悪」は行為に宿る。「悪は存在しない」と言う断定は「悪はどこにでも存在し得る」と言うことと同義だ。

善悪を論じるときに思い出されるのは、西田幾多郎の「善の研究」だ。西田は人間に自由意志などはなく、普遍的な善悪の概念もないとしつつも、純粋経験による意志の実現、そしてそれによる人格の形成こそが「善」であると定義した。
この作品の登場人物達にも自由意志はない。自然法則や社会情勢など見えないものによって否応なく動かされる。(「だるまさんが転んだ」は水の流れる動きのモチーフであると同時に、見えていないところで物事が動いてることのメタファーでもあるように思えた。)
また西田哲学では西洋的な二元論を否定し、あらゆる要素は分離も分解もできないという東洋的思想に立つ。この作品の根底にもそういった善悪を簡単に割り切らせない姿勢が伺える。上述したように「悪」の実在はなく、各々の行為に見る影像だからだ。


⚠️この先はラストの内容にも触れるためネタバレとなります。⚠️


主人公の巧はミステリアスな雰囲気を持っていて、まるで霊的な存在か何かのようだ。彼は村の人間でありながら、自分達も流れ者でありグランピング業者と大差はないという認識が示すように、村側の価値観に寄ってもいない、均衡のとれた人物として描かれている。
彼は一種のバランサーで、この世界に均衡をもたらすための存在だ。この彼の性質がラストの唐突な展開と大きく関わっているように思える。

巧のとる行動にはいくつか不可解な点がある。

1つ目は鹿の通り道の件。なぜ危険でない鹿の通り道がなくなることに懸念を示すのか?理由が何故か明かされず、柵の案にしても「自分も本当にわからない」とどこか自信なさげ(言い換えればオープン)な態度だ。
これは「上流と下流」の話で解釈できるかもしれない。鹿は自分達にとって下流におり、その義務を果たすべき意識が通り道を潰すことに慎重になっている。しかしそれだけでは理由を言わないことに筋が通らない。
おそらく彼は本当に「わからない」のだ。通り道は潰しても別の通り道ができるだけだし、むしろ鹿がくれば人も喜ぶから何の問題もないという説明は筋が通っている。だが通り道を潰すことの影響を計算しきれない。柵の案と同様に、「どうなるか本当にわからない」からこそ、その気持ちが慎重な態度に表れているように思える。

2つ目は娘であるハナの迎えを頻繁に遅刻することだ。彼の生真面目なイメージからはあまり想像できない行為だし、ハナが1人で山道を帰っても動じない。そんなことで危なくないか?と思うのだが、案の定、終盤に娘が失踪してしまうという事件が起きる。そしてハナを探す際もどこか切迫感が希薄である。そうなることを望んでいたとまでは言わないが、どこかそういった事態も受け入れている態度だ。

そしてラストではハナが傷ついた鹿と相対しているのを見た途端、高橋に組みついて首を絞めて殺害する。全く非合理的かつ理不尽な行為だ。
おそらくハナは実際には巧が発見した時点で既に死亡していたのではないだろうか。巧が目撃したハナと鹿は実在のものではなく、傷ついた鹿はハナを死に至らしめたもののメタファーだ。
非実在のハナはどこか超然とした雰囲気で、帽子をとる。この帽子をとる所作は巧のそれと同じであることは意味深だ。

巧が高橋を殺した理由、それは巧はハナを生き返らせようとしたのではないだろうか?と当初は思った。巧のバランサーという性質から、高橋の死との等価交換によってハナを生き返らせようということだ。
ただ、それだと切迫感が希薄な態度の説明がつかない。
まだはっきりとは自分の中で考えを咀嚼できてないのだが、巧は自然そのものの状態を上流にいる者として保全するために慎重且つ極度に原理的(自分の娘の死すら受け入れるほど)だとする。だから切迫感がなくすべてを受容している。
ハナを死に至らしめた「銃弾を受けた鹿」の銃弾は人為的なものだ。劇中で銃声が聞こえるシーンが2回ある。一度目は「ずいぶん遠く」であることが言及され、2回目は高橋がなぜ銃声とすぐ分かったのか?という疑問が提示される。
そこから想像できるのは、巧はハナに私をもたらした人為的な原因(上流にいる者の行い)の端緒を高橋に見たということだ。そして彼を「悪」と断じた。そのため彼を殺害した。均衡をもたらすために・・・

今はまだこのあたりまでしか考えが及ばないが、なんにせよ多様な解釈が許される作品で深いテーマ性がある。
また流れるカメラワークと音楽の組み合わせの歩調は、時に美しいが時に不穏だ。この緊張と緩和のバランスがなんとも不気味で、鑑賞者に弛緩した態度を許さない。これらの表現技法のおかげで画面から目が離せなかった。

かなり不完全ながら、なんとか自分の思考を捻り出せてホッとしている。これで他の人の考察も読めるので、そこからまた自分の中で咀嚼してみたい。
個人的には間違いなく今年暫定ベストの作品だった。
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