ろく

悪は存在しないのろくのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.5
水郡線に乗る。

水戸からワンマン電車を乗り継いで瓜連という駅で降りる。駅も無人駅で誰もいない(降りる人だけはちらほら)。駅前には見事なくらい「何もない」。不安に駆られながらそこから歩く。10分。あまや座はそこにあった。

茨城唯一のミニシアター。座席も30席ほどしかない。ここで見ることが出来るのか。果たして出来る。映画館は満員で全席埋まっている(チケット買ったとき「良かったですね、最後の一枚です」と言われた)。皆が濱口の新作に期待を寄せている。

開演。熱気で少し暑い。最初のCMがいかにもこのミニシアター的なものでふわっとする。

映画は。そう、この映画は「ここで見てよかった」。そう言える映画だった。

僕らは今「誰とでも話せばわかる」と信じている。グローバルな時代になり(それは本当は錯誤なんだが)皆が同じ価値で正しいと思う方向で「進んでいる」。でもそれは本当だろうか。映画もそうだ。ポリコレが正しいとされ「正しい」ことさえすれば「分かり合える」と思っている。

だから皆雄弁に語る。これが正しい、だから「私を理解してくれ」と。語りは一方的な正しさを伝える装置だ。その中で「悪は存在しない」。

でもそれは本当にそうなんだろうか。もともと生活に食い込んでくる「他者」はそれだけで(たとえそれがどんなに「正しい」としても)「他者」でしかない。「正しい」者は声高に「正しさ」を語るけど、それは本当に「正しい」のだろうか。僕はそうは思わない。その地域でしか、そのローカルでしかない「正しさ」があるし、そこに入ってくるものはそれがどんなに「正しい」としても「正しくない」。

見ていて文化人類学の考えを思い出した。「正しさ」の旗の下でその地域が蹂躙されていったのは枚挙に暇がない。エスキモー(あえてこう言う)に寝方を説明したためにその生活リズムまで狂わせた欧米人を「正しい」と言えるのだろうか。

濱口のメッセージを勝手に理解するなら、「その集団に入っていくということはそれだけで蹂躙なんだ」ってことだと思っている。それはこの映画で見られる「地域的」なものだけでない。小さくは家族も、大きくは国家も。

正直、「ドライブマイカー」ではガジェットが五月蠅すぎで僕は濱口をあまり好きでなかったけど、この作品は好きだ。それは「語らない」から。語らない主人公(まあなんと冒頓なことか!)を見ることで僕らは「語る」が必要ないのではないか、そこまで感じてしまった。それはぼくらに対し「語る=蹂躙」を繰り返そうとする映画と正反対だ(ちょうど前日のその最たる映画である「オッペンハイマー」を見た)。「語らない」ことが何かを語っているのとも違う。「語らない」はそのまま「語らない」でいいんだ。

映画が終わって瓜連の駅に向かう。明かりすらほとんどない道を歩く。この映画を見たあとは都会の喧騒やネオン、車のサーチライトも邪魔である。僕は何もない真っ暗な道をただ進み、だれも乗っていない電車に乗り込んだ。
ろく

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