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悪は存在しないのわにのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.5
タイトルの出方がザジフィルムズのパロディでミニシアター万歳!からはじまります。

冒頭の森を見上げる撮影にはじまり、動物や植物、自然を携えてくる感じはタルコフスキーや、近年の『EO』あるいは『バルタザールどこへ行く』など日本では近年ミニシアターで上映される少しハイブローな映画になって、作品のいい/悪いは別にしてひたすら眠い映画になりかねないけれども、その崇高さと濱口監督お得意の"対話"が共存しているなが恐ろしい。
花が画面の右から左へとただ坂を駆け上がっていくシーンがただただ映画として気持ちが良すぎる。

突然ぶつっと切られる音楽や車の進行方向とは後ろ向きに置かれたカメラの映像を見るなど、やはり常に不穏な安心できない要素が映画を覆う。

とにかくこの映画、高橋がアホすぎる。僕は基本「病みそう」とか「お前」とか「しっくりくる」とか安易に口にするやつは信用しないし、うどん屋で仕事の大声で仕事の話をするとか、仕事に引っ掛けて聞いてもないのに「個人的に」から話なんかするやつと仕事はしたくない。その前のシーンで「ここの水を使った蕎麦に感動した」ってエピソードを聞いているんだから、うどんを食べて「ここの水はすごい」と褒めれば少しは分かってる感を出せるだろうに、「体が温まりました」としか口にできない男なのだ。その割にほんの数時間巧と薪を割って、水を汲んだだけで"分かった感"をだし、ビジネス相手である巧との会話では堂々と一人称で「俺」を使い、ズボンに手をつっこんでタバコを吸うし、しまいには巧に手で制されてるのに鹿に突っ込んでいこうとする。
対して、黛は聡明さをもっていて、うどん屋で自分語りをして"熱意"を示し、大袈裟に頭を下げて巧を口説き落とそうとする高橋の横で絶対に頭を下げないし、高橋に「東京に1人で帰れ」と言われても帰らない。
俺が1番嫌いなタイプの軽薄さを持ったアホで、何よりタチが悪いのは根が悪いわけではないアホであること。

さて、このアホたる高橋は巧に文字通りの意味で"絞めあげられる"。散々、銃声だとか死骸、斧が画面で取り上げられるのだから、やはり誰かは暴力に遭わないといけないのが映画の常だと考えれば、僕はここで高橋が絞め殺されそうになるのは至極当然のことのように思う。

濱口監督作品がこれまで散々あらゆる形で積み重ねてきた"対話の可能性"。今回はコインの裏側ではある"対話の不可能性"についての映画だったのではないか、というのが僕の今回の見立てです。例えるなら、エドワード・ヤン『カップルズ』がラストシーンを迎えず殺しのシーンで終わってしまった、ような。

対話が成立するにはあちらとこちらが向き合い、聡明であることが求められる。人と人は絶対的にわかりあえない。それが大前提であり、それを一瞬乗り越えたように見える瞬間があった時に感動を覚える。
人と人の分かり合えなさ、そこにある壁、これは決して数時間薪を割ったり、水を汲んだくらいでは本来超えられるわけがないのだ。それなのに、片方が分かった気になってしまえば、そこで対話が閉じられるのは当たり前の話である。
"高橋"が象徴する関係性の軽視に僕が見出したのは"効率的であること"。人件費や設備投資などのコストを削減すること、補助金申請に間に合わせるために求められる"タイパ"、ひいてはファスト映画や倍速視聴へのアンチテーゼも感じました。

濱口監督は映画の外ではガザ停戦に関する声明に名を連ねたり、コロナ当初にSAVE the CINEMAを発起したりと活動をされている一方で、作品の中においては政治性を排除はしていなくとも、明確な言及はしないことがそれなりに徹底されてきたように思っています。何か特定の事件やイシューを想起させる内容は意識的に避けてきたように思う。
そんな濱口監督が映画内で「コロナ助成金」「上流でとった行動の結果が下流に影響する」ことを明確に言及したこと。

映画内では企業が上流で、現地住民が下流にあたるのだろうが、高橋・黛に指示を与えた人間は?その企業に行き当たりばったりの助成金を与えたのは?

"悪は存在しない"わけはないのだけれど、誰かをスケープゴートにしても何も進まないのだ。それこそ"対話の不可能性"を示すことになる。
ただし、フィクション作品である以上は『JOKER』でアーサーが、『天気の子』で穂高が実弾をぶっ放すのと同じように、高橋は巧に絞殺されるべきなのだ。
なぜなら、巧が絞めあげているのは"高橋"ではなく、"高橋"に絡まりついた組織やシステムのエラーなのだから。
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