みんなの言う「運動」も濱口映画においては単なる挙動に留まっているし、ひたすらに狭められた視野へ世界を収めてきた彼であるが、今回明らかに何か変わろうとしている気概が感じられたので収穫はデカい。
端的に言ってそれは長らく追求してきた「不可視」の表象手段が言葉ではなくなっていることで、『PASSION』の本音ゲームから本作のシンメトリー構図まで一貫して「水」が不可視要素を炙り出す媒介物となっていることも見逃せない(説明会で芸能事務所の男が水を飲むタイミングも完璧)。
ゆえに水質汚染と映画の本質が濁っていくことは決して無関係ではないし、この主題も突飛な選択ではなかった。
木々を見上げる画角のパンより移動撮影がフォローになってないことにこそ(被写体を見失う瞬間がある)本作の運動性が潜んでおり、客体であることをふいに放棄してみせるキャメラの自我ともいうべき暴力性が垣間見える。
鹿の白骨死体から視点が分離し、山中では絶えず動物的なアングル/動きになっていると考えるのも面白い。
それは長回しにしても持続時間が構図を緩やかに変容させていく『PASSION』や『親密さ』の感動とは根本から違う次元にあって、本作ではただ人同士のやりとりを仕事的に切り取っているにすぎない。
神秘性と好奇心がたえず拮抗している娘はその外側へ引き寄せられていく
オレンジ色のジャンパーや鹿との切り返しでディア・ハンターやもののけ姫を思い出しちゃうのは俺が悪いんだけど、グランピングを削ぎ落とせば殆どタルコフスキー映画だったので次作への期待が高まってます