けちや

悪は存在しないのけちやのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

(視聴直後)
 冒頭の「石橋英子、炸裂」と言わんばかりの鬼気迫る音楽からずっと目が離せない。高速道路での二人の小気味良い会話あたりで「悪の存在しなさ」を私みたいな馬鹿にも分かりやすく描いているな~と呑気に視聴していたのも束の間、画面から滲み出続けていた不気味さがその先から一気に加速されていく。行方不明者の放送を聞きながら黛が夕日差す森を見つめるシーンは恐ろしくも美しい。そしてあのラストシーン、分かりやすいと思っていたはずのタイトルが、クライマックスの分からなさをダメ押しするような形で機能しているように感じて叩きのめされてしまった。良いとか悪いとか一言で片付けることは出来ないです私には。

(数時間後追記)ラストシーンについて
 あのラストを見たときの私の率直な印象としては、巧は「バランスを取った」のかなと感じた。    
 言葉少なの巧が劇中で語った数少ないことが"バランス"だったから、私の中では巧が「自分の中に確固たる"バランス"のルールがあって、それを重んじている人間」に見えた。その自分なりのルールに従って生きていく覚悟を決めていて、そのルールの上では娘の生死や自らが人を殺めることさえも例外にはならないのかなと。
 あの状況は娘と鹿の二人だけの問題で、父親ですら不可侵、何も手を出してはいけないというのが"バランスを取る"ということであり、自然(鹿)に運命を委ねているように見えた(そもそもあの状況で彼に娘を救い出す手段があったのかは微妙なところではある。静観するのが鹿に刺激を与えないという意味で最善で、高橋への行動も殺意というよりは動きを封じたい(その結果殺してもしまっても致し方ない)、というだけのことかもしれない)。
 彼が動いていいのは自然からの回答を得た後であり、娘は鹿に襲われる、というのが回答であった。回答が出るまでは動いてはいけないが、回答が出たら動く。それが彼のルールだった。それが私のような部外者からすると「娘を鹿に襲わせておいて、その後救助する」みたいな一見不可解な状況を作り出す(書いていて気付いたがこの視点は高橋そのものじゃないか?)。のかな~。飛躍しすぎか。
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