きゃんちょめ

悪は存在しないのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
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【この映画を観て考えたくなった論点】

この映画は色々なことを考えさせてくれた映画である。その時点で極めて良い映画だった。今年の暫定ベストは確定である。

僕が鑑賞していて気づいたことは以下の通り。

⑴まず第一に、巧は、「都会と田舎」という二項対立などではなく、「人間と自然」という二項対立を立てているということ(そして重要なことに、自然の側には当然のことながら悪はないし、人間の側にも接写で観察すれば悪はないと考えていそう。僕は実は、自然の側に悪はないというこの主張こそ疑わしいと思うのだがこれについては第六の論点で後述する)。

⑵そして第二に、巧は自分のことを徹底的に人間側に帰属させて理解しようとしていること。そしてだからこそ、そんなにも人間的な自分を抑制して自然の本当の姿を捉えようとしているようだった。

⑶そして第三に、花について巧は、花がちょうどその「人間と自然」という二項対立のアワイにおり、しかしその花もいずれ人間側に帰属していくことにならざるを得ない存在として厳しく理解しているということ。

⑷そして第四に、最後に巧と高橋が観た鹿と花との邂逅のヴィジョンはどこか人工物のように見えるということ。実際、鹿と鹿のツノの接合部がどこかプラモデルのように見えた。

⑸そして第五に、人や自然から搾取する巨大な悪は存在すると僕は思うのだが、それが映画の外部に追い出されているように見えたということ。つまり、コンサルのコンサルのコンサルというこの因果系列が無限に続くわけはなく、どこかに結果の重大性など全く考えず、意図的に私利私欲をむさぼろうとする巨悪として資本家がいる(し、そしてそいつの自由な決断は責任を問われるべきだ)と僕は思うのだが、それを濱口竜介は(自覚的にかもしれないが)映画から捨象していると思った。『悪は存在しない』は『(この映画には)悪は存在しない』ということでいいのだろうか。

⑹第六に、ラストシーンについて。花の呼吸を確認するシーンが劇中にあるから花は無事なのだろうが、花はおそらく鹿から肉体的暴力を受けている。だって鼻血が出ているからね。そしてこの肉体的暴力が悪なのかどうかだよね。実はこの鹿と花とのあいだにあった肉体的交流も映画内で描かれていない。そして、僕個人はこの肉体的交流は痛みを伴う暴力的なものであったに違いなく、そしてこの痛みを伴う暴力こそが根源悪だと思う。そして、この根源悪は巨悪ではない。僕は根源悪と巨悪は区別したい。先ほど述べた資本家という巨悪は人為的秩序の中で位置を与えられるべきで、かつ相対化が難しい悪だという意味で巨悪なのだが、それに対して痛みというのはあらゆる高等生命にとっての根源悪で、「痛みはもしかして良いものなんじゃないの?」という問いが痛みの発生論的な根源では発生の余地すらないと思う。もちろん風俗店などで痛みを好む大人も社会にはいるけれども、それは人が痛みに意味づけをしおわっていて、その意味というか価値を味わっているから生じる愉悦だと思う。これは人間の発達と進化が可能にした自由がなせる技だと思う。さて、話を戻すと、自然的な痛みを僕は悪だと思っている。そしてこうした悪を引き受けていく必要があると思う。濱口竜介監督は「自然のなかに悪は存在しない」と言うだろうが、自然の中には生命が満ちている。その生命が悪を存在させており、その生命どうしの自然な殴り合いを、痛いんだから僕は悪だと思うが、その悪と共に生きないといけないと思う。というか共にしか生きられない。生命が自然の中に生きることそれ自体が痛みという根源悪と共に生きることだと僕は思っている。痛みと生命は表裏一体なのだ。ただ、「生命なきところに悪はないではないか」と言われれば、それはそうだ。だから、濱口竜介の主張である「悪は存在しない」には一定程度までしか同意できない。「悪は存在しない」と主張するためには生きていることが必要で、生きていれば悪は存在するんだから、「悪は存在しない」って、どこか転倒した主張に聞こえるんだよね。自然的悪についてはたったいま述べた通りだし、人間的悪についても巨悪は認めるべきだと先ほど述べたから、どちらの悪についても存在を言い立てたくなってしまうな。なお、生きることそれ自体が含まざるをえない根源悪としての痛みは減らそうにも減らしきれないものだと思うから、「痛みを排除しましょう、悪を排除しましょう」という主張を僕がしたいわけではなく、排除しようにもしきれないものとして適切な位置を悪に与えましょうというだけのことは言いたい(無痛分娩とかターミナルケアとかのことを考えると、痛みを排除しましょうという活動もあるわけなのだが、ここで僕はそういう話はしておらず、そういう活動の原理的困難と前提とを確認しているのみである。痛みはない方がいいが、痛みをなくすことは死ぬことだからできないというこのことの確認をしたに過ぎない)。「自然界にevilとしての悪は存在しない」としても、「自然界にbadとしての悪も存在しない」とはかなり言いづらいと思う。自然界には生命が満ちており、生命は痛みを与えるイバラを「bad」としてまずは負に価値づけ、忌避せざるをえないのだから。

⑺それから、第七に、最後のシーンの解釈について。僕はむしろ、ここまで述べたことと整合的なように、あえて我田引水的で牽強付会な解釈を吐露するならば、巧は花を、この人間という自然物のもつ自然的力と、鹿という自然物のもつ自然的力とがぶつかりあって痛みを発するという暴力と、そのバランスという純粋に自然的な次元(=ここまでの僕の言葉で言えば根源悪の次元)に連れて行ったようにも見えた。人間は自然物でもあり、生きることは自然との闘いであり、だから危険でもあり、痛いことでもあるのだと伝えたようにも見えないだろうか。もちろんその暴力は、この美しい映画に映らない。
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