Yoshishun

悪は存在しないのYoshishunのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

“対話の果てに待ち受ける純粋な悪意”

『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督が、長野の田舎を舞台にしたインディーズ映画。雄大な自然を生きる便利屋の巧は、一人娘の花と共に平凡な生活をしていたが、都会の芸能事務所が企画したグランピング計画により自然との調和、日常が脅かされていく。
対話に次ぐ対話の果てに思いも寄らぬ人間の本性が暴かれていく過程はまさに濱口監督の真骨頂。敢えて単調に感情を殺した、抑えた台詞回しが全編を紡ぐのに全く眠気を覚えないのは言葉選びの巧みさ故の脚本術にある。

本作は、ゴダール映画のようなタイトルロールと共に、誰かの視点で下から木々を見上げるショット、石橋英子によるどこか不穏さを感じさせる旋律が流れる。7分にも及ぶロングショットが終わると、名もわからない男の薪割り、水汲み、どこからともなく聞こえてくる鹿猟の銃声(誰かが東出昌大の仕業と予想していたのには爆笑した)、しばらくして男には娘がいることがわかる。掴みでは極力台詞は排除され、静かに淡々と町の人々の交流が描かれていく。

濱口監督流会話劇が炸裂しだすのは、グランピング事業の説明会の場面からだろう。グラマラス+キャンピングの合体語であり、都会からの地域活性化を謳った新規事業であったが、その実態は国からの補助金目当ての突貫工事に過ぎず、そこには地元の人々や環境への配慮は微塵もなかった。ただ事業主側にはそこに明確な悪意などは一切なく、彼らなりに地方を盛り上げる地域おこしの一環という側面で善意を以て対応していたのである(社長やコンサルタントには全く善意の欠片もないが)。案の定、説明会ではグランピング施設の設備、管理体制の杜撰さを指摘され、更には地域住民への賛同を得る機会に重要人物が参画しない企業の姿勢を批判される。企業側は善意を以て対応しているつもりでも、住民からは悪意ある事業にしか思えないのである。しかし、この両者が対話をしたことでこのような認識の差異が発覚し、ここから更に対話を重ねることで徐々に差異を狭めていき、関係性は改善されるようになっていく。しかし、対話はそう簡単にうまく事を運ばせない。対話に対話を重ねていくことで、予期せぬ時点で話し手の本性が露わになっていくのである。

終盤の鹿の例え話において、事業担当者はグランピング施設によって通り道を阻害された鹿はどこにいくべきか問われた際に、彼は「どこか別の場所に行けばいいんじゃないですかね」と答える。これはグランピング施設内の排水処理により生活を脅かされる地元住民を蔑ろにすることへのメタファーといえる。本作において山を生きる鹿は、地元住民の人々そのものだったのである。この時の夕日に照らされた巧の表情には、一見何かを決意したかのようにもみえる。

そして、誰もが呆気に取られる衝撃のラスト。一時は地元住民に溶け込む善良な担当者として受容されつつあったが、先述の例え話により人間性を知った巧は、行方不明となっていた花を発見した瞬間、担当者を締め殺してしまう。巧は便利屋であると同時に、地方における自然とのバランスを重んじる存在である。バランスを崩す要因は排除するしかない。単に担当者は中盤での女性との会話で激昂していたように感情的になりやすく、大声で荒げるようにして手負いの鹿を興奮させまいとして咄嗟の判断で気絶させようとしたとも取れる。これも彼なりに悪意のない純粋に娘を守るため、もしくはバランスを保つための行動と取れる。悪意のない善意ほどたちの悪く、逆に人間らしい側面はないといえる。

濱口監督作品は、やはり会話劇に一切隙もなく、対話に対話を重ねてそこに人間らしさを重ね合わせていく。説明過多なそこらの邦画と異なり、邦画らしくない世界に向けた邦画として今後の作品にも注目していきたい。そして、『寝ても覚めても』のレビューでも言ったが、会話劇ベースの本格派ホラーを観てみたい。
Yoshishun

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