クロスケ

悪は存在しないのクロスケのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.0
今まで観た濱口作品の中で、最もカメラの存在を意識させる映画でした。

バイオリンとチェロの低い音色が響く中、森の木々を見上げる長い移動ショットで映画が始まります。その些か長すぎる導入の件には、カメラの存在を意識せざるを得ない、緊張感が張り詰めていました。

カメラの存在、つまり、それを見ている眼差しの主体に着目すると、本作には度々不思議な画面が登場することに気づきます。

タクミと学童保育所の職員とのやり取りを捉えていたフィックスショットが平然と動き出し、いつの間にか車窓の風景を捉える移動ショットになっていたり。
高速道路を走らせながら、水挽町に向かう高橋と黛の車内のやり取りを終始、後部座席から見つめていたり。
オンラインミーティングに参加していたプレイモードの社長が退出したあと、Webカメラで捉えられたオフィスにいる社員たちの様子がしばらくモニターに映し出されていたり。
唐突にオカワサビや鹿の死体の視点に切り換わって、登場人物がカメラのレンズを覗き込む瞬間があったりします。

これらの画面は一体誰の主観で撮られているのだろうと考えを巡らせているうちに、ある結論に思い当たります。
カメラの存在を意識することとは、我々観客自身が映画を観ているという事実に意識的にならざるを得ないということであります。

黙々と水を汲んだり、薪を割ったりするタクミの姿や住民説明会でのやり取りを辛抱強く凝視するカメラに、我々観客もいつの間にか同調してしまっているのです。

であるが故に、クライマックスで冒頭のショットが再びスクリーンに現出したときは、思わず息を飲みました。
ハナを探して森を歩くタクミに並走する横移動ショットは映画の序盤でも登場しましたが、終盤ではそのバリエーションが展開され、序盤とは明らかに異なる不穏な空気を感じ取った我々は、事の顛末を固唾を飲んで見守るほかありません。

その時、映画を観ている我々は単純な傍観者でいられるのでしょうか。この町の、そこで暮らす人々と自然との間で交わされる営みの一部始終を図らずも見てしまった我々は、極めて繊細な関係性に否応なしに関わってしまったのかもしれません。
そんな残酷さをこの映画は内包しているように思いました。

住民たちが懐中電灯を手に、ハナを探して歩き回る真っ暗な森は『ミツバチのささやき』を思い出させましたし、霧が烟る草原や鹿の水飲み場の情景は溝口健二を彷彿とさせる神秘性に満ちていました。
中でも、タクミの家に一人残された黛が、ハナの安否を心配して戸外に出てくるシーンがあります。彼女の後ろ姿を捉えた同じショットが、時間をおいて2度登場するのですが、奥に見える森の木々の間から見え隠れする陽光が、夕暮れと共に少しづつ暗くなっていきます。
自然とは美しさと恐怖が表裏一体なのだと感じさせる見事なショットでした。
クロスケ

クロスケ