上でやったことは必ず下に流れてくる。
鹿の水場
鹿に言えることは人間にも言える。
グランピングで人が増え、鹿の通り道がなくなる。鹿はどこを通ればいい?
あの村全体が鹿の水場だ。利益のために誰かの生活を人生を蔑ろにしようとしている。そのことに気づいているのに見て見ぬふりをする。説得すらしようとしない傲慢さ。
なぜ自分を優先に考えてしまうのだろう。
無意識に誰もが自分を優先に考えてしまう。
自分が危害を加える可能性を想像もせずに。
そんなのっておかしい。おかしいのになぜおかしいと感じられなくなっていくのだろう。
はっきりとした答えを与えられないから逆にそこが良かった。分からなくていい。そういうことの方が多いから。答えを知りたくなるのは一瞬で、映画館を出て歩き始めてからはぼんやりと頭の中に物語が充満していく。
私たちはあの最後に一体何を見たんだろう。
一つのサスペンス的な要素というか、おかしみ、教訓のようでそんなに計画的なシーンではないようにも見える。ただ断片的に繰り返しあのシーンばかり思い出す。
巧さんの話し方が不思議で感情が分かりにくかったし、どんな人なのか何も掴めなかった。何か仮の存在なのかな。何者でもないようで何かよく分からない脅威を感じる。
分かりやすいことと分かりにくいこと、目に見えて分かることと見えにくいこと、それぞれが存在していた。視点を変えればどの立場にもなり得る。そのことについて考えられているか。"これは、君の話になる―"
"漂い"だ。全く何も分からないわけではなく、上手い具合に漂いがあるので、ぼんやりとした枠の中で自由に考えられる余白がある。
悪って主観によって変わる。誰かにとっては悪でも誰かにとっては悪ではない。全ての目から見た悪は存在しない?"悪"は存在しない。けど………?