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悪は存在しないのKtoのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.5
■総合的な感想
底知れぬ不穏さと高い芸術性が両立している不思議な傑作だった。
ドライブマイカーよりも、構成やストーリーはシンプルで分かりやすいと感じる。
濱口監督特有の不気味かつ不穏な演出が随所に見られ、独自の幽玄美を構築しており、素晴らしい映像だった。

木を煽るように撮ったオープニングが異様に長尺で、自然風景のゲシュタルト崩壊が起きる。この時点で芸術映画的である。一方で、無名俳優が淡々と最小限の台詞で物語を構築しているにも関わらず、明快なエンタメ性も担保されているというのが本作の凄さだと思った。

■「なぜ、こんな映画が成り立つのか?」
もともとドライブマイカーの音楽を担当していた石橋英子氏が、自身のライブパフォーマンス時に流す映像制作を濱口監督へ依頼していた。映像の制作過程で、ストーリーのある劇映画としても制作を進めることになった。という成り立ちでできたらしい。

石橋氏の作業場である長野県諏訪市に頻回に訪れる中で、現地の住民から様々な話を聞き、ストーリーのディテールを拾いつつ構想を練ったらしい。

抜群に知的な濱口監督とはいえ、地方住民の声を描くのがあまりに上手すぎると感じていたけど、そういった特異な経緯で制作された作品だからこそ、詳細をここまで詰められているのかと納得した。おかわさび、浄水槽の位置による水質汚染、山火事リスク、鹿の習性への理解など。

■「住民説明会のシーンが傑作」
特に、住民説明会のシーンが凄すぎる。
説明会以前までは、美しい自然風景と「便利屋」である巧の生活が、淡々と描かれるので若干眠気を誘うんだけど、説明会前の巧宅での集まりで「芸能事務所が、コロナ助成金受給目的に、グランピング事業をやろうとしている」という情報が出されたあたりから、空気が変わる。

説明会に来る高橋と黛(まゆずみ)が、いかにも話が通じなそうな風貌で最高。
グランピングの映像も、いかにも自然環境に造詣のない都会の頭でっかちなコンサルティング会社が一晩で考えそうな内容で、めちゃくちゃ笑ってしまった。なぜか自然の中を歩いているのは、ブロンドの女性なのだ・・・。
高橋の結論ありきのうんざりした姿勢が、住民の憤りを煽る。うどん屋の女性が話している時に水飲んだりと…。「水は低いところに流れる。汚いものは下に溜まっていく。上のものは、下のものからそれなりの振る舞いをするよう求められる」
住民が冬景色の中で、暗いトーンの服装をしてるのに対して、この高橋がビビッドなオレンジのジャンパーを着ているのも、異物感があって良い。深田晃司監督の「よこがお」のスタイリングを彷彿とさせる。

都内芸能事務所のコンサルティング担当者も、社内でairpodsで片手間に会議している感じとかが最高に憎たらしい。「パワポの13ページにもある通り」とかプレゼンに取り憑かれた現場軽視型の仕事っぷりを見事に描いている。社長もしょうもない…。強いていうなら、”悪”はこの社長ではないか?と思った(そんな簡単な話ではない)

■濱口監督「純然たるフィクションも純然たるドキュメンタリーも存在しない(wiki引用)」
各所で評価されているけども、「都会vs自然」「資本主義vs自然」の二項対立を(濱口監督なので、当然ながら)忌避している。
住民説明会の場面まで、主人公である巧に寄り添うような映像が続く。ところが、不誠実な説明会を開いた芸能事務所の二人(高橋と黛)が東京に帰ったあたりから、その二人の人間臭さが描かれはじめて、むしろ彼らの方に感情移入してしまう。

介護福祉士から転職したとか(黛役の女性が本当に介護福祉士にいそう・・・)、高橋が俳優志望から現在の職に至っていたり、マッチングアプリしてたり「お前」呼びを消せなかったりとか、あまりにも現実的なディテールがドラマとノンフィクションの境界を曖昧にさせる。(実際に高橋役の俳優は一度俳優業を辞めているらしい)

高橋の変容に併せて(あるいは本来の性格が徐々に明らかになるにつれて)、「高橋らが水挽町に馴染んでいく展開かぁ」と無意識に予想していたところ、まさかの急展開が訪れる。

翻って、巧が徐々に不気味な存在として立ち上がってくるのも面白い。高橋らが現れてから何故か絶対にタメ口を破らないもの怖い。
巧役の大美賀均氏は、もともと映画制作のスタッフで、スタンドイン(=諸々の設定を調整するために、俳優が入る前にスタッフがカメラの前に立つこと)をしている姿が「不気味で良い」と濱口監督に気に入られて抜擢されたらしい。確かに、熊のような体格に鋭い黒目の目立つ髭面で、薪割りをしていると不穏な空気が醸し出される存在感だった。

濱口監督の手法である(もともとはジャンルノワールが実践していたイタリア式本読みに準じた)「なるべく感情を込めないで本読みさせる」という演出が、特に住民説明会の巧のセリフの凄みに繋がっていた。
巧が脱帽して、「大事なのはバランスだ」というところは本作のハイライトだろう。

「単純に分からないんです」

■「とはいえ、これは芸術映画だ。」
奇妙な視点からの撮影が多い(おかわさび、鹿の骨、車の後ろ)。
特に、石橋氏による不自然に電子的な音楽が良い意味で異物感を演出している、前半の学童のシーンも印象的だった。だるまさんが転んだ、をスライドしながらの(それ自体で芸術的ではあるが)撮影と異常にマッチしていてカッコ良い。
そして、学童から車を出す時に、「え、これ車の後ろにカメラついてるの?!」ってなるのが前衛的だった。
その後のシーンで、歩く巧を並行してカメラで捉えていると、手前に土の盛り上がりが見えて、巧が見えなくなって、次に見えた時には花をおんぶしているという撮影があって、ヤバかった(語彙を失った)。カッコよすぎる。

タイトルやストリングスのぶつ切りはヌーヴェルヴァーグ風である。

■「一見神妙な面持ちでみる映画に見えて、劇場がドッと笑うシーンがあるのがすごい。」
うどん屋のシーン

■衝撃のラスト
衝撃のラストの解釈を個人的には保留している。
少なくとも、それまでに着実に構築してきた不穏さが、束の間の暖かさをひっくり返すような展開で恐ろしい。
「悪は存在しない」というタイトルと本編映像が、意味深長な重唱を奏でており、見終えた後の残響がまだ残っている・・・。
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