うどん二郎

悪は存在しないのうどん二郎のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.5
「悪は存在しない」(Evil Does Not Exist)、つまり「人間だけがいる」(この英題のアナグラムが"EDEN"なのはあまりにも用意周到すぎはしないか)。はじめから終わりまで言葉の映画だと思ったけれど、急に最後、観客の側に批評をすることを要求してきて、あきらかに飛躍を含んでいるのにその「穴」を埋めさせようとこうして語らせられている。ただ、作品全体を「神話的」と括ることは避けたいと思う。長野の自然が醸し出す土着性みたいなものにこだわるのも、巧(大美賀均)が作中「ここにいるのはみんな言ってみればよそ者」(趣旨)とガイドしてくれたように、映画とは俳優も観客もその場その場で仮に集まっては散じていく場のことであろうから、よしておきたい。「水は低い方に流れる」というのはこの映画できっといちばん耳に残るフレーズだと思うが、これも観客に指針を与えてくれているだろう。法則(ルール)は、市場のそれ、社会生活上のそれ、自然のそれ、といろいろあり、それぞれが交差しあいつつ適用されている。とすれば、映画ではどうだろう。この映画を「映画らしい」と評する向きが見られたが、僕はあまりそう思わなかった。アンモラルな存在を暴くという意味ではたしかにそうかもしれない。でも、カットを並べて作るのが映画だとすると、まるで話は紙芝居のようにブツ切りにされていて、場面場面の観客の理解はそれぞれ一拍遅れて到達されるように思われる。では言葉によってすべてが説明されるかというとそうでもなく、言葉は発せられれば、なにか大事なことの表面を滑っていくようでさえある。ただガイドはしてくれているように思う。最後の突拍子もないオチは小説で言ったら「黙説法」(あえて語らずに、語ること以上の効果を期待すること)に当たるだろうか。カメラは最後グランピング施設の建設予定地(?)に辿り着く。これ以上「上」に何もない空間にあって、これより下には汚物を流すしかない。だから「白紙」に戻して水を堰き止めるのだという捉え方すらできるだろうが、よくわからない(ところで、説明会のときに芸能事務所の男が飲んでいたのはきっとエビアンだかボルビックだかよその山から持ってきたミネラルウォーターだろう)。このような意味ありげな見方の鑑賞が芯を食っているかもわからない。あと「上から下」関連でいうと鳥の羽根も意味ありげだけれど、あれ以上「上」はない、それより上は天国か? 娘はなんで帽子を脱いだ? 夢と思われるシーンや最後、形式上の時間処理が急速になったのは不自然すぎないか? 腑に落ちないことが多いが、とにかくこの映画は恐ろしい(多くの人が指摘しているみたいだけれど、黒沢清『カリスマ』のような背筋の凍り方だった)。途中まで気を衒わない「エコ映画」(だからヨーロッパでウケたのかな〜)なのかと思ってたが、とんでもない。映画ならではの表現があるとしたら、いろんな視角から風景を見られること、でも心理は絶対見えてこないこと、時間が流れること、かと思う。それが映画の法則だとしたら、可能な範囲の表現はこの映画でやっちゃっている。なんだか訳のわからなさまで含めて仕掛けられたなと思う(余談的だが、濱口竜介作品の音響について言及していたひとがいて、僕は他の監督の作品でもあまり音響面のことは気にならないのだけど、びっくりする音が多かった)。
うどん二郎

うどん二郎