◎森の便利屋と天使の娘が遭遇する聖なる鹿殺し
濱口竜介監督の作品としては、終盤手前までは、かなり分かりやすいのではないか。
近年の政府が主導する補助金行政の本質的な杜撰さを、実に集約的に腑分けして見せてくれる。
本来、国が予算を配分して行う事業は、継続的に安定した成果をもたらすために充分に時間をかけて計画されなければならないはずだ。
【以下、念のためネタバレ注意⚠️】
ところが、近年は、事業自体を申請者に丸投げしたり、場合によっては、特定の企業に任せっきりだったりして、国が本来持つべき責任を放棄している事例が当たり前になってきている。
本作で取り上げられている、コロナ禍で本来業務が出来なくなった芸能プロダクション相手に、地域活性化事業を申請すれば補助金を支給するという政策は(本当にその通りの補助事業があったかどうかは別として)その典型例として上手く構築されている。
誤解のないように注記すると「上手く」というのは作劇上、巧みに、という意味で、国のなすべき補助金事業として良く出来ているという意味では全然ない。
本来、国がきちんと主導して推進すべき地域活性化事業を、民間活力導入とかのお為ごかしで、民間に丸投げする。
この場合、コロナ禍で経済的に逼迫した芸能プロダクションには最初から、その方面の能力はないから、中間搾取者としての特定のコンサルが多方面からの受注を引き受け、金太郎飴的な青写真をクライアントに提供する。
おそらく、濱口監督も、似たような事例に、出くわしたに違いないが、文化活動の分野でも、農林水産業の分野でも、あらゆる国の補助金事業の対象となりうる分野で、似たような事例には多くの関係者が遭遇しているはずだ。
映画のタイトルは『悪は存在しない』だが、本作において、地域の実情を完全に無視して金太郎飴的なノウハウのみで補助金獲得を目指そうとするコンサルと、芸能プロの社長は分かりやすい「悪」として描かれている。
だが、地元説明会では、木で鼻を括ったような説明しか出来ずに、地元民から総スカンを食った高橋と黛が、社長やコンサルには地元民と同じ正論をぶつけたように、彼らもまた国の無策の結果でしかない補助金事業のシステムの「被害者」でもある、そうでなくともシステムの産んだ副産物=鬼子であることを告発していると見たい。
この点については、濱口監督は、明らかに大きな怒りをもって本作に臨んでいることが、登場人物たちのセリフからも感じられる。
国の無策そのものの補助金事業が、専門外の業者による無謀な地域開発の計画を産み、その強行が自然と地域が培ってきたバランスを破壊することを告発しているのだ。
終盤近くまで、美しい自然と、分かりやすいグランピング施設計画の暴力性を描写してきた本作が、ラストのシークエンスに至って、突然のように、謎めいた終止符を突き付けてくる。
「鹿の通り道」に計画されたグランピング施設の建設は、森に精通していたはずの巧の予想していた以上に、自然と地域とのバランスを破壊するものであった。
だから、そこで、銃に撃たれた鹿は、本来なら人間を攻撃しないはずなのに、親しみを感じて近づこうとした花を攻撃した。
そのあり得ない光景を見たとき、巧は、そこに高橋を近づけてはならないと感じ、発作的に高橋にスリーパーホールドをかけたのではなかろうか。
巧は、小澤征悦にそっくりで、高橋は、漫才ミルクボーイの駒場にそっくりだった。
グランピング施設計画が人智を超えた「聖なる鹿殺し」を招来し、最愛の花への攻撃となって現れたことを理解した巧は、高橋という存在を許してはならないと判断したのではないか。
『WILL』で山の狩人たらんと宣言した東出昌大に、本作の感想を訊いてみたいとも思った。