YasujiOshiba

伯爵のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

伯爵(2023年製作の映画)
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ネトフリ。23-152。『オオカミの家』に続いてチリのチネマ。これも最高。歴史や政治に題材をとりながら、きっちりと映画作品に仕上げている。これは、プロパガンダ映画のような「政治による美学」に対抗する「映画による政治」の模範のひとつ。クローチェではないけれど、分をわきまえることで、普遍的な価値をもつものの典型。

物語の端緒をフランス革命直前におき、フランス語を「裏切りと戦争の言語」であり「神が唯一聞き届けられる言葉」とするのが秀逸。ところが物語の語り手は英語で話しているではないか。その理由は後半に明らかになるのだけれど、パレスチナ問題のような世界のあちこちにあり、人々を苦しめている深い傷跡の多くを、イギリス帝国が行ったことを連想させる。

もちろんその延長上に合衆国がある。ロシア革命の追放亡命者が、その合衆国の軍隊での訓練を受けたというのが実に示唆的。さらには舞台のチリの言葉がスペイン語だということ。それはもちろんスペイン帝国の残りのもの。いやはや。

それにしても、アウグスト・ピノチェト(1915 - 2006)をルーマニアのストリーゴイの血を引く存在とする発想が秀逸。ストリーゴイ(Strigoi)とはラテン語の「strix」(ミミズクの一種)と「striga」(ストライガ属の寄生植物)に由来する。ミミズクは「子どもの生き血を吸うと考えられたており、ストライガは穀物に寄生する植物として恐れられていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/ストライガ属)。

ストリーゴイの一族は人に寄生してその血を吸いながら生きながらえるのだけど、その父なる存在は仲間に引き込んだ女に殺され、寄生生物との人間のダブルを再生産しながら、いくつかの歴史的な事件の主役を演じてきた。だからこそ、一族の物語は父と子、そして母と子供たち、種族を超えた捕食と愛の物語となる。

飛翔がみごと。伯爵に扮した召使の飛翔は、本物さながら。その本物のほうの疲れた体で、エロスによる回復を求める飛翔の悲哀。その次に、エロスの対象であるカルメンチータ(パウラ・フルジンガー)のミミズクの子が歓喜のうちに飛び方を学ぶような飛翔。そこに、ラスボスさながらにサッチャーの衣を借りた母なる存在が舞い降りる。まさに映画。白黒画面でのみごとなスペクタクル。

それにしても監督のパブロ・ラライン、すでにマエストロの風格を感じさせる。すでにピノチェト三部作をものにしているようだけれど、まずは『No(ノー)』(2012)あたりから、少しキャッチアップしてみたいと思う。
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