開明獣

ウェイン・ショーター 無重力の世界の開明獣のレビュー・感想・評価

5.0
脳内に宇宙を観たくなったらウェイン・ショーターを聴く。そんなことが出来る音楽家はショーターくらいだろう。もっとも尊敬する音楽家であり、思想家であり、人間が、ウェイン・ショーターだ。

開明獣は、決してスピリチュアルな人間ではない。宗教や占い、自己啓発系のセミナーは全く信じてない。この世の成り立ちの殆どは、数式で表された科学で実証されうるものだと思っている。その点では唯物論者だ。その意味では、心理学や精神分析学にも懐疑的だ。実証可能性の低い科学は、いかな統計学を駆使したとしても信憑性が薄い。

一方、開明獣は、森羅万象の中で、妖怪や得体の知れぬ、人には測り知れぬ何かはいるかもしれないとも思っている。唯物論は、所詮、我ら人間が考え出した、人間の認識の中でのみ通ずるもの。その外側に何があるかは、分かり得ない。

音楽は楽器を操って、耳に届く周波数の中で、リズムとメロディとハーモニーを駆使したもので、定量化された情報に落とし込みうるものだ。だから、我らは音楽配信サービスで音楽を楽しむことが出来る。

だが、それらデジタル情報が脳内で転換され、心象風景にどのような影響をもたらすのかは、未だ解明されていない。不思議なことに、ショーターの音楽を聴く人の多くは、彼のバックグラウンドや思想を知らなくても宇宙を想起するという。

外形的には、デジタル化されうる情報なのに、一旦内部に取り込まれると説明不可能な化学反応を脳内に起こしてくれるのが音楽だ。それは唯物論も不可知論もマージした、説明不可能な、いや説明の必要のない何かなのかもしれない。

本作は、ジャズ界というより音楽界に巨大な足跡(フットプリンツ)を残した、偉大なサックスプレイヤーのドキュメンタリーだ。制作にブラッド・ピットが名を連ねている。彼の音楽を知らなくても、彼やその周りの影響を受けた人たちの言葉に触れるだけでも価値あるものだと思う。その人生は決して平坦無事なものではなく、災難や不幸の連続でもあった。だが、それらを克服して彼は人として徐々に大きくなっていく。映画とコミックブック、そしてフィギュアの大好きなショーター。彼には年齢という境界すら視野に入れてないようだ。

前述のように、ショーターの偉大さは境界を設けないことだ。どんなものでも受け入れる懐の深さが、彼を巨人たらしめている。ジャズ界でも若手とも積極的に交流し、ジャズ外でも、オーケストラや、ジョニ・ミッチェル、ローリング・ストーンズ、ノラ・ジョーンズとの録音に参加したりもする。

ショーターにとって、音楽のカテゴリーの差異などミクロすぎて気にも止めぬような些細なことなのだろう。彼にとってジャズとは、カテゴリーではなく、生き様なのだ。彼のこだわりは、いかに新しい領域にたどり着けるか、だけにある。個々のジャンルや曲、アーチストへの好悪など、彼にとっては考えるに値しないつまらぬことのようだ。

漆黒の音を表現出来る唯一無二の男は、物事には始まりも終わりもなく、無限だけがあると喝破している。無限は物理的には存在しないが、概念的には存在する両義性を持っている。ショーターの思想を支えるのは、無限という言葉に他ならない。

ニューアーク生まれの、吸い込まれるような大きな目をしたサックスプレイヤーは、2023年3月2日に、人間界の領域を超えていった。80歳を超えても現役を貫いた、彼からの私たちへのメッセージは、きっとこういうものだと思う。

「私の音楽には終わりはないのだよ。まだ続きがある。どこかでまた会おう」
開明獣

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