昼行灯

利休の昼行灯のレビュー・感想・評価

利休(1989年製作の映画)
3.7
ちょっと出の山口小夜子‪‪

利休と秀吉を結びつけていたのは振る舞いだったのだと思う。茶道は言ってみればスタイルが全てで、そこに美が追求されているし、わびさびが生じているもの。秀吉は農民から天下をとった人間だから、彼もまた上流の振る舞いを身につけることで、そこに溶け込もうとしていたといえる。しかし、彼にとっては自分が百姓の出であることは秘匿にしたい一方で変えがたい事実であり、真の意味で上流には決して染まれないということは彼も承知だった。そのなかで茶道は元々中国からの禅宗が広めたものでありながら、上流に尊ばれていた文化であったから、秀吉もまた茶道に憧れつつも親近感を持っていたのではと思う。利休も町人の出だし。

この秀吉の振る舞いについての演出は作中のなかでこれでもかというほどなされている。秀吉は身内では名古屋弁丸出しだし、部屋や服は洋風だし、母の宮勤めの事実をでっち上げるし。その一方で茶の飲み方やご飯の食べ方ではやっぱり育ちが出てしまう。
利休もまた茶道の教えを習得し、振る舞う人なんだけど、彼はわびさびを心得たうえで自分のものにしているから秀吉よりも格上である。庭の名もない花を一輪挿しにしたり、花器の外に梅を配置したり、花をむしって浮かべたりするのは、一見するとご法度のように思えたりもするのだが、そこに情緒が漂ってくる。そこに秀吉は惹かれていたんだと思う。
秀吉は言わば他者同士千利休に親近感を覚え、尊敬の念を持っていた。しかし、利休は秀吉にとっても他者だから、そこに負の感情が働いてしまう。秀吉との感覚の違いが積み重なって政治的衝突にも繋がり、身分差からこのようなラストになってしまった。そうした違いに際しても最後まで己を貫いた利休に、やっぱり秀吉は感服したに違いない。
昼行灯

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