keith中村

ある閉ざされた雪の山荘でのkeith中村のレビュー・感想・評価

ある閉ざされた雪の山荘で(2024年製作の映画)
5.0
 あまり観るつもりはなかったけれど、仕事終わりの時間に丁度合っていて、予約ページ開いてもそれほど混んでいなかったので鑑賞。
 まあ、本格推理の映画化はこんなものだろうな、という想像通りの作品でした。
 
 原作は東野圭吾の初期、さっきも書いたけど、いわゆる「本格推理」を書いてた時代の作品。文庫化してすぐくらいに読んだはずなんだけれど、ほとんど忘れていたので、ストーリーを追う分にはそこそこ興味は持続できた。
 
 私が推理小説に最初にハマったのは小学生の頃で、今でもあるのかしら、当時は古典的推理小説(もちろん「EQMM」の翻訳版はあったし、「ミステリ」という言葉は存在してたんだけど、今ほどこのジャンルに多様性はなかったのでもっぱら「推理小説」と呼ばれていた)を子供用にリライトしたハードカバーがどこの小学校の図書室にも置かれていた。乱歩とルパンとホームズはシリーズで揃ってるんだけど、それ以外にもガストン・ルルーやヴァン・ダインやポーやクイーンやクリスティの有名どころがあったと思う。
 
 それに飽き足りなくなってきても、我が家には父親が買い漁ったハヤカワのHPBが(もちろん、ミステリだけじゃなくSFの方もあったけど)汗牛充棟だったんで、古典的推理小説(と、古典的SF)は小中学生でかなり網羅し、体系的に読んで来た。
 古典的推理小説ってのは、だいたいがフーダニットをメインとするトリック破りの物語なんですよね。だから、登場人物はあくまで作者の動かす駒に過ぎない。
 それこそ、小学生だったか中学生だったか忘れたけど、父に「推理小説って『人間』が描けないじゃん?! SFのほうがよほど『人間』を描けるよね?!」って問うたことがあった。くぅ、なんて不遜な発言なんだ。今から思えば。
 そしたら、父がこう答えた。
「何を言うか。推理小説こそ、人間を描くにもっとも相応しいジャンルではないか!」
 当時は清張なんかはまだ読んでなかったので、父親が何を言っているのか理解できなかったんだけど、その数年後にはこの齟齬を理解できた。つまり、当時の私は「『本格推理小説』は人間を描いてないよね」と言っており、父は「いや、『社会派推理小説』は人間を描いているのだ」と言っていたのですね。
 
 ドイルやクリスティを筆頭とする本格推理は、「犯人は誰だ?(フーダニット)」や「どうやって殺した?(ハウダニット)」をメインとする、「作者と読者の智慧比べ」なんですよね。だから、「人間描写」や「社会性」はそこそこオミットされ、あくまでパズルやリドルが前面に出てる。(いや、クリスティなんかは決してそれだけじゃない、ってことは大人になってからは理解できるんだけれどね。たとえば「オリエント急行」なんて、リンドバーグ事件への鎮魂歌だもんね)
 
 で、対する「社会派推理」は、これは中には「推理」が主眼ですらないものも含まれてくるので、現代では「社会派ミステリ」と呼ぶ方がいいんだろうけれど、「人間を描くこと」をメインに据えている。
 
 東野圭吾は初期は「本格推理」が主戦場。で、しばらくして氏は本格推理を「やりきった」、もしくは「飽きた」ので「社会派」や「SF」を含む多様な作風へと変化していった。本格推理時代の終わりのほうで、「最後まで読んでも犯人が明かされない(けれど、しっかり読めば読者が推理できる)」などというとんでもない作品を二つも書いちゃったことが、それこそ「やりきった」「飽きた」ことの証明じゃないですか。
 
 あ~。金曜なんでだらだら焼酎呑みながらだらだら書いていると、1ミリも本作に言及してないわ。
 なんだっけ?
 
 うん。「本格推理」は映画にそぐわないんですよ。
 人が作者の動かす駒に過ぎないので、犯人やトリックがわかったらそれまで。繰り返し観られる類の映画にならない。
 だから、「本格推理」の映像化作品はいつの頃からか、「オールスターキャスト」の豪華な作品に進化した。
 それなら犯人を知って観てても、まあまあ繰り返し楽しめるから。
 
 また脱線するけど、それはそれで原作読まずに劇場に行く場合に、「中でもとりわけ大物俳優が犯人」と、観る前から推測できるという弊害も生じちゃうんだよね。もしくは、「悪魔の手鞠唄」の大物女優による「まさかのネタバレ会見」なんてのもあったわさ!(松本伊代ちゃんの、自筆を謳ってるのに「まだ読んでません!」事件もあったね。昭和って、まあ何てカオス!)
 
 話戻すね!
 えっと、「本格推理」は映画に向かない。
 
 だから、本作も先例に違わず「オールスターキャスト映画」という手法になってました。
 もちろん、邦画で若手を揃えてるだけなので、シドニー・ルメットの例の作品の数パーセント程度のバジェットなんだろうけど。
 
 最初に書いたように、ストーリーはどんどん進むので、興味は持続しました。
 ただね。本格推理なんで、人間が全然描かれないの。キャラの性格がまったくわからないの。
 で、そのまま第三幕の「探偵による犯人当て」に突入しちゃうのさ。
「あぁ、やっぱ観なくてもよかったかな。でも、ま、いいや。1月12日にして劇場6本目。2日で1本ペースか。本数稼げたわ」なんて失礼なこと考えてました。
 ところが、この三幕目で俄然重岡大毅くんのキャラが立ち始めるんです。
 うわ~、この男の子の性格好きだわ~。ってなっちゃうんです。
 最終的な「真犯人」の動機を理解しつつも、それでもその人を前向きにさせる発言。
 この時点で私ゃ、歩けなくなったクリストファー・リーブが主演した方の「裏窓」がバリバリ脳裡によぎって半泣きになっちゃってるんですよ。「それでも演じたい」という役者の魂の叫びだよね。
 
 そこから、「絶対この演出が来るな」という想像通りの最終的な、あの「飛躍」ね。
 このパターンで終わる映画も現代ではそこそこ多いですよ。
 ここ10年くらいで私が最高に愛しているのは「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」だね。あれは、逆にもう一つ「飛躍(リアルの舞台では不可能な映画的演出)」があったんで、マジ好きすぎる。
 この映画にもそれがありました。
 そこで、袖に引っ込んだ時に、間宮くんから感謝の言葉を言われた重岡くんの受けの演技。ここ、私も一緒にちょっと泣いちゃった。
 
 おれ、やっぱ「前向きなミステリ」好きだわ。
 
 数回書いてるけど、「名探偵コナン」を私が愛してるのは、「推理で犯人を追いつめて、みすみす自殺させちまうような探偵は、殺人者と変わらねぇよ」という、「本格推理」へのアンチテーゼがシリーズ全体を貫いているから。
 「駒」じゃないんだよ。「人間」なんだよ。
 
 さて、モギリのお兄さんにもらった、「ネタバレなので後で開けてください」的な文が書かれた「名刺サイズのカード」。
 今の今まで開けてません。
 このレビューを書き終えて開こうと思ったから。
 
 じゃん!
 今から開きますね。
 …って、めっちゃ開けにくい! これ、どっから開けるの?!
 あ、開いた。
 
 …あかん。これ、泣く。
 これは泣く!
 こんな写真見せられたら、泣くわ!
 
 やっぱ映画の評価の9割近くは終わり方だよね。
 こうやってレビュー書いてるうちに、つまりは焼酎を喇叭呑みしてるうちに、どんどんこの映画のことが好きになってきた。
 もう、だからつまんないって評価も全然わかるけど、大サービスで満点を献上します。
 
 あのまったく意味や機能がわからない、ラース・フォン・トリアの実験映画へのオマージュ(「真似」って言っちゃうのが気の毒なんで…)も含めて。