わっしょい

ある閉ざされた雪の山荘でのわっしょいのレビュー・感想・評価

ある閉ざされた雪の山荘で(2024年製作の映画)
3.3
叙述トリックの映像化という挑戦。

原作小説を全く知らずに鑑賞。
ミステリーものとなると、つい登場人物と一緒になって推理しながら観てしまう。
というか、それがミステリーものの醍醐味だと思う。
そうすると、他のジャンルの作品よりも細かいところを気にするし、気にしなくても良いところまで気になってしまう。
この作品では、ちょっと作品としての強度が足りていなくて、ミステリーというジャンルとうまく噛み合ってないのかな、という印象を受けた。

具体的な引っかかる点をいくつかあげてみる。

1つ目。
監視カメラが至る所に設置されている環境で、本当に殺人が起こっているはずなくない?という点。
もし殺人が本当だとしたら、カメラを見ているはずの東郷先生が、流石に何らかのアクションを取ると思う。
そのアクションが起こらない時点で、殺人が本当に起きているはずがない。
そこに疑問を持たない登場人物に、違和感が発生する。

2つ目。
アリバイ作りの人選。
余りにも都合が良すぎる。
1回目はまだ偶然と許容できるとして、2回目が余りにもピンポイントで当たりすぎ。
5人が生き残っている中、容疑者と被害者になる予定の2人だけをピンポイントで除き、残りの3人で同室で一晩過ごしてアリバイ作りをする。
これにより、結果的に犯人やその思惑が明かされることになる。
結末への決め手が単なる偶然の産物になってしまうし、ミステリーものとして気持ち悪い。
何か裏があるはずだと、引っかかりを覚える。

3つ目。
そもそもの久我の存在。
結末がわかった時点で誰もが思うであろうこと。
「これ、久我いない方が都合良くない?」
終盤、そもそもオーディション自体が嘘とわかり、偽オーディションの目的も劇団内に閉じたものとわかる。
そうすると、久我の存在は邪魔でしかないし、呼ぶ必要性が全くないように思える。
「それなのに久我がいるということは?」と思考すると、久我周りで余りにも都合が良いことが起こっているという引っかかりが呼び起こされ、久我も共犯だという結論が思い浮かぶ。のが自然な流れ。

自分が引っかかったことを適当に3つあげてみた。
これらの引っかかりは、最後の推理で何かしら触れられる。と思いきや、完全にスルーされる。
「最初から全部仕込みでした。」みたいな、お粗末な結論すら予想していたけれど、それですらない。
完全にノータッチ。
モヤモヤ要素を作っておいて何も触れずに終わるのは、ミステリーものとしてはやってはいけないことな気がする。

余りにも気になって、原作についても調べてみた。
変に都合が良かったり、描写の物足りなさを感じたところは、軒並み原作から改変、追加されたところのよう。
回収できる脚本になっていなかったことに、ちょっと納得した。
他のジャンルなら、単純にシーン追加だけで良いかもしれない。
ミステリーだと、それが引っかかりになって、ちゃんと回収しないといけなくなるのが難しいなと感じた。

あと、原作で一番面白そうな要素は、映画化にあたっては全く取り込まれていないことも知ってしまった。
地の文という小説独特の表現を映像化するのは、やはり難しそう。

一方で、ラストシーンは映画オリジナルのよう。
山荘からシームレスに舞台上に切り替わるシーン。
この表現は小説ではできないし、映画化したことの意義がここに込められていたと思う。
ただ、これが新たな疑問を産んでしまっているのは否めない。
舞台上の演技を現実のように描いていましたということなのか?
劇中の出来事を通して、新たな舞台作品を作ったのか?
個人的には後者の方が綺麗だと捉えたけど、どうなんだろう。

途中の貴子のセリフ。
「役者は嘘をつく仕事。お客さんに楽しんでもらう為に嘘をつく。」みたいなニュアンス。
製作者のメッセージが込められたであろうセリフで、これを受け止めようとすると、ラストシーンは前者の解釈が正しいような気もする。(そうすると原作の結末を捻じ曲げることになるけれど。)
わっしょい

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