琥珀

52ヘルツのクジラたちの琥珀のネタバレレビュー・内容・結末

52ヘルツのクジラたち(2024年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

キナコは強い。

たぶん、この映画の鑑賞直後の感想としては、えっ、どういうこと?みたいな感じだと思いますが、以下、その理由について。

・キナコの身体的感性が第二の人生で覚醒
キナコの強さは身体的感性の素直さにある。
安吾が終わらせてくれた第一の人生の中では、心身ともひたすら耐えるのみであったが、第二の人生では、ビールの味、焼肉の味、セックスの味というように身体的快楽を通じて〝生〟を実感していった。

『哀れなるものたち』のベラと似てないか?

・甘ったれのクズ専務の暴力表現について
結婚生活と愛人関係が両立できると考えてる時点で、その幼稚さは明白。また、酒に溺れたり、キレると暴力的になるステレオタイプなダメ男ぶりをわざわざ描いていたが、興信所の調査結果を使っての卑劣な所業や遺書を燃やしてしまう短絡的な思考だけで、キナコが専務を見限るのに十分な理由となる。暴力が殊更に目立ってしまうとキナコの感性の繊細さ、つまり、本人の心の傷や安吾への寄り添いと後悔よりも顔に残された表面的な痣のほうが印象づけられてしまう。
だが、キナコの心はクズ野郎の暴力などでは折れない。

クズ専務がやっていることは、実は『哀れなるものたち』の男どもの所業と本質的に同じではないか?


・性同一性障害に関する安吾の葛藤について
性同一性障害の方にとって肉体的な壁がどれだけ恋愛関係を構築する上での妨げになるのか。
生まれついての肉体は男だが心は女という人の場合、子宮がないことで、恋愛は諦めるのか。
性が肉体と心で一致している男女であっても、なんらかの理由で性的な関係が結べないことはある。
もちろん、性同一性障害の人だって、それぞれ別の人間なのでひとくくりにパターン化することなどできない。
人間の感情は決して合理的に割り切れるものではないからこそ、「愛することをやめた」安吾の心の複雑さと変遷をもう少し丁寧に描いて欲しかった。

自殺の直接的な原因(キッカケ)は、母親からもそれを〝障害〟と言われたことだったが、橋の上でキナコから拒絶された時、肉体上の快楽を与えられない自分について、あらためて思い至ったことも無関係ではない。

従来の男どもに染みついているさまざまな〝哀れさ〟まで、一緒に纏う必要はないのに、恋をしてしまった時、そして哀れさの象徴である新名に出会ってしまった時、ピュアで優しくて繊細な感性が、哀れさに耐えきれず壊れてしまった。
安吾の死は、とても悲しくてやりきれないことだが、同時に弱くもある。

身体的強さとは、セックスで快楽を与えることだけではない。ハグしたり、一緒に食事を楽しんだり。
52ヘルツの鯨たちの声を聞いてあげられることは、とても強いこと。
それを〝身体的な強さ〟のひとつとして(本人にそんな自覚はなくても)、イトシを守ろうとするキナコはやはり強いと思う。
琥珀

琥珀