くまちゃん

コンクリート・ユートピアのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

コンクリート・ユートピア(2021年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

韓国では土地不足等で日本より持ち家率が少ない。2020年の住宅統計では6割以上がマンションに居住している。マンションを韓国ではアパートと言う。
"家を買う"とは基本的にマンションのことであり一軒家はよほど裕福でなければ購入できない。マンションもそれほど安価とは言えないが韓国独自の賃貸システムにより比較的リーズナブルで誰でも手を伸ばしやすい。「ウォルセ」と「チョンセ」はマンション購入時の保証金に関する制度だ。「ウォルセ」はオーナーへ保証金を支払った後、月々家賃も支払う。「チョンセ」は高額の保証金を支払う事で家賃が免除される。どちらも保証金は契約期間満了時に全額返金される。「チョンセ」はオーナーが保証金を運用するため全額返金してもプラスになるという事らしい。だが昨今この制度を利用した不動産詐欺が増加している。今作では現代の韓国社会を痛烈に風刺しながら人間の愚かさや弱さ醜さを痛々しいまでに炙り出す。観客が終始居心地の悪さを感じるのは決して他人事にはできない普遍性があるからだ。

未曾有の大災害が韓国を襲った。地面が隆起し、賑わっていた街並みは一瞬で瓦礫の山と化した。被害規模は如何ほどだろうか。死傷者は相当多いはずだ。ましてや季節は冬。気温は氷点下10度を大きく下回る。ライフラインの全ては崩落し情報を得る術はない。何千年も積み重ねてきた人類文明が一瞬で先史時代まで押し戻された。これが流行りのタイムリープなのか。非難されてもいい。夢オチであってくれ。神がいるなら救ってくれ。そんな民衆の願い虚しく現実は残酷な軋みを立てて近づいてくる。

天変地異が神の悪戯なら被害を免れたファングンアパートは神への宣戦布告として建設されたバベルの塔を想起させる。最後の砦となったこのマンションには被災者達が押し寄せてくる。ここはたまたま崩れなかっただけだ。今はみんなで手を取り合い互いに助け合わなければならない。いつか救助隊が駆けつけるまで。しかし、天災は大切なものを平等に消し去ってしまう。被災者たちは心を病み、極限の緊張状態に誰もが限界を感じていた。それはやがて強奪や暴力、放火に住居侵入と犯罪行為を誘発し日々大小様々なトラブルが頻繁するようになった。

ミンソンとミョンファはごく普通の若夫婦だ。どちらも善人であり真面目で献身的な性格が見て取れる。それは公務員と看護師というそれぞれの職業にも顕れている。だが二人の「善」は次第に背離していく。似た属性を持ちながら何が二人の指向を分岐させたのか。それは「善」を包括した表面上の人間臭さに起因する。マンションの外から母子が助けを求めてきた時のこと。室内へ入れて欲しいと懇願する姿を見てミンソンは気まずそうに断ろうとする。受け入れたのはミョンファの判断だ。つまりミンソンは情と保身の間を彷徨う優柔不断さがあり、ミョンファは迷えば情を優先させる芯の強さがある。

一階で発生した放火事件。率先して火事場へ突入し煤にまみれながら消火活動にあたった男は一躍英雄となる。
無秩序なファングンアパートは統率者と新たな秩序を必要としていた。婦人会会長のグメを筆頭に会議が開かれ、住民代表としてヨンタクが指名される。消火活動の際の明確な献身性が評価されたためだ。ヨンタクはとても人の上に立つような人間ではない。自信なさげに呟く言葉はとても小さく誰にも届かない。うだつの上がらなそうな中年。それは誰もが賛同するヨンタクへの共通認識である。拡声器の使い方一つとってもパッとしない。この男は住民代表としてやっていけるのだろうか。ストレスで胃に穴が空きそうな顔をしている。ヨンタクが徐々に変わり始めたのはある大きな決断を下した時からだ。住民以外をマンションから追放する。追い出された民衆は暴徒化しマンションへ押し寄せる。ヨンタクは数回頭部を殴打された。普通なら倒れてもおかしくはない。住民代表の重責とともに心が折れてもおかしくはない。だがこれはヨンタクの埋もれた狂気を呼び覚ますに至った。

ヨンタクはその行動力と統率力、裏切り者や外部の者へ対するあからさまな凶暴性によってカリスマ的に祀り上げられる。ここはもはやただの生活共同体ではない。民衆の不安を鎮めるかのように心の間隙に降り立った神、ヨンタクを中心としたカルト教団に等しい。
生活のためなら仲間のためなら他者を傷つけ場合によっては殺人も厭わない。彼らはただ生きようともがいているだけだ。死ぬのが怖いだけなのだ。

ミンソンは入手した桃の缶詰をミョンファに食べさせようとする。匿った母子に隠れながら。ミンソンの保身とはミョンファを含む。愛する妻との穏やかな生活を確保するためミンソンは次第にヨンタクに傾倒していく。家族を守るには教主とコミュニティに従順で献身的な姿勢を見せなければならない。だからこそヨンタクの伸ばした手を握り返した。例えその握手が悪魔との契約であったとしても。自身の働きは各世帯への配給に直結する。絶対に守る。強くあろうとするミンソンの姿は痛々しい。そんな壊れかけた男の異変をひしひしと感じていたのは妻ミョンファであった。ミンソンが優しいのはミョンファが一番良く知っている。配給が減ってもいい。優しいミンソンに戻ってほしい。それがミョンファの願う穏やかな生活であった。

マンション内にゴキブリが潜り込んでいた。善意に忠実な住民が外部の人間を匿っていたのだ。ヨンタクはすぐさま害虫駆除に乗り出す。その本来人間的行為の一端にミョンファが関わっていた。ミンソンとミョンファ。二人はそれぞれ失いたくないもののためリスクを犯す。だがそれは互いを思えば思うほど背反する。ミョンファは保身よりも優しさを失うことを恐れていた。

ミョンファが外部の人間を匿ったことをミンソンは謝罪する。ヨンタクに縋りながら頭を垂れる。そんなミンソンにヨンタクは言った。罪悪感も自負心も持つ必要はないと。家長が家族を守るのは当然のことだと。それはミンソンへの言葉というより自分に言い聞かせているかのようだ。ヨンタクはファングンアパートの住人ではない。本来妻と娘と3人でこのマンションに住めるはずだった。だがその夢は無惨にも打ち砕かれる。韓国で流行する不動産詐欺にあったのだ。自分たちを謀った相手に返金を求め、詰め寄り、殺してしまった。殺意はない。完全な事故だ。呆然とする名もなき男に電話が掛かってくる。娘から。通話にすると助けを求める娘の声。借金の取り立てらしい。妻は切迫した声で男を詰る。現状を打開しようとした努力を言下に否定し夫として父として家長としての実力を否定する。それはどれほど彼を傷つけただろうか。家族を守ろうと遮二無二動いた結果、平凡な男の手は血に染まってしまったのだ。報われることのない努力。男の憤怒を鎮めるかのように、傷心を慰めるかのようにそれは起きた。災害は瞬時に街を浄化した。家族の死は男にとってこれ以上のない不幸であるが、同時にリスタートの機会でもあった。男は殺した男ヨンタクになりすまし、ファングンアパートに居座った。何百人も暮らすマンションで住民代表に選出されたのは運命の悪戯なのか。否、男は神に選ばれたのだ。うだつの上がらないただの中年に垂らされた一本の糸。それはコンクリート製の堅固な要塞。なんとしても死守せねばならない。この城を侵害することは何人たりとも許さない。亡き妻が、娘が男の今の姿を見たらどう思うだろうか。見直してくれるか、喜んでくれるか、家族の絆は取り戻せるのか。男がヨンタクに成りすましファングンアパートの絶対君主に固執したのは今は亡き家族に認めてもらいたかったからかも知れない。

時代によって英雄的とも悪魔的とも思えるナポレオンのようなヨンタク政権は、外で被災した住人の少女が帰還したことであっけなく終焉を迎える。男がヨンタクではない事が露呈した。本物のヨンタクの死体も発見された。ここで住民の統率が傾きカルトが崩壊する。彼らの暴走はもう止められない。ここに住めるのは住民だけ。そんな規律を象徴する男が住民ではなかったのだ。もはや規律など無意味に等しい。荒れ狂う民衆の中ミンソンはミョンファと共に逃げる。己の誤った指針を是正するかのように強く優しく妻の手を握る。初めから信じるべきはヨンタクではなかった。ミョンファの手はさぞ温かったことだろう。熾烈な逃走劇の末、二人は誰もいない瓦礫の隙間で愛を確かめ温もりを確かめ静かに眠った。

その朝は日差しが強かった。これまでの殺人的な寒さが嘘のように陽気が街を包みこんだ。もう冬は去ったのかも知れない。これで生き延びれる。穏やかな生活がおくれる。自分たちは助かった。希望の光を反射した瞳でミョンファは隣のミンソンに語りかけた。たが返事が返ってくることはなかった。温かい空気とは裏腹にミンソンの身体は冷たく硬かった。
ミョンファを守るため負った傷が致命的だった。そこからの長距離の移動が体に負担をかけた。ミンソンは春の訪れを目前に死んだのだ。

ミョンファはたまたま通りかかった人々に保護される。茫然自失となりながらもついていくと、そこでは互いに助け合いながら暴力や犯罪とは無縁の生活を送る人間的なコミュニティがあった。自分たちは生きるためマンションに立てこもっていた。少し外を歩けば別のユートピアがあったというのに。自分に少しの勇気があれば、もっと早く殺伐としたコミュニティから抜け出せたかも知れない。愛する夫と幸せを共有できたかも知れない。後悔は先に立たない。ミンソンを追い詰めた責任は自分にある。夫は自分のために心を消耗していたのだ。今はここの人たちの優しさが嬉しく温かく、痛かった。1人が聞いた。ファングンアパートの人は人肉を食べるのかと。前時代的な狩猟活動を継続する上で外部で流行したただの噂。ミョンファは静かに否定する。心を整理しながら言葉を選ぶ。眼球の動きは中空で言語を模索しているかのようだ。そして応える。ただの普通の人たちだったと。

東日本大震災ではガソリンスタンドに渋滞ができ、普段は温和だった常連客でさえ罵声と怒号をがなり立てた。
新型コロナウイルスの世界的流行では大量にマスクを巡って買い占めや強奪、転売などが相次いだ。
彼等彼女等は誰もが普通の人々。泰平の世で慈愛に満ちた生活を送っている。非常時に凶暴性を顕すのは恐怖と焦燥である。災害でなくとも大多数の人が買っているのを見ると買わないと不安になる心理が働くらしい。パニック状態では人の心はどんな変貌を遂げるのか予測が立たない。今作では災害をテーマにしながら緻密なヒューマンドラマをスリラーに仕立て上げることでずっと心を抉られ続けているようだ。
ハリウッドでも活躍し絶大な人気と確かな演技力を持ちながら「白頭山大噴火」や「非常宣言」といったディザスター、パニックスリラーなどのジャンル映画でもその実力を発揮するイ・ビョンホンはまさに韓国のチャールトン・ヘストンと言えるだろう。

日本は地震の発生率が高く、今作公開時期も能登半島地震が発生したため日本国内に限れば鑑賞者を選ぶのではないだろうか。それでも映画としての試みは高く評価したい。
くまちゃん

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