ヨミ

劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦のヨミのネタバレレビュー・内容・結末

-

このレビューはネタバレを含みます

続きもの、すでに積み重ねられたストーリー、そして後に続くストーリーが存在する、という条件下で映画を作ることは困難だろう。そもそも1本で完結しない作を「映画」としてどう捉えればいいのか?……というとこまで考えたところで、じゃあスターウォーズどうすんだ、という内なる声が入ったので考えるのをやめた(重要なトピックではあるはず)。
さて、本作は原作漫画およびアニメの続きだ。アニメは未見だが漫画33巻292話の映画で行われる試合直前まで読んでから臨んだ。ハイキューはぜんぜん未読だった(中学生くらいのときたまたま買ったジャンプに連載開始1話が掲載されていたのを読んだ記憶がある)が、勧められて読んだら滅法面白く、主人公である日向翔陽が所属する烏野高校だけでなく、敵である相手校も好きになってしまう巧みなキャラクター表現をはじめとする圧倒的な漫画力で読んでしまった。というのはまあ、漫画版ハイキューの感想なのだが、端的に「続きもの」アニメ映画としてかなり出色の出来だったのではないか、と思う。
割と当初は「TVアニメ的な演出が多いなあ」と感じて、映画でやる意味を考えながら観ていたのだが、これは後の演出についての布石となる。つまり後半に行くにつれて「アニメ映画」というレベルのスピードとテンポを保つ試合が展開される。極め付けは最終盤、BGMも歓声もなくなり、音駒高校のセッターである研磨のPOVショットが最大の見せ場となる。ただ自分の呼吸音と仲間の声、シューズと床が擦れる音だけが響き、床と相手と仲間とボールに目線を動かし続ける、緊張の時間だった。というかよすぎてずっとこれが続けと思ってしまった(これはそのとき研磨が考えていたことなのではないか)。
そして、研磨の手からボールが滑り落ちる。汗。前半ではライバルである日向が重要な場面で汗ですべり、点を落とした。「よりによってここで」と悔しがられた場面、しかし「よりによって」音駒はマッチポイントを汗で落としてしまう。そしてそれがマッチポイントだと知るのは、試合が終わったと知るのは、その数拍あとなのだ。「ボールが落ちるまでは終わらない」と作中で何度も反復される意識だ。原作では(少なくともそれまでの試合では)リアルタイムで点数の動きが提示され続けてたので、本作で点数があまりわからないまま進むのはちょっとな、と思ったら最後の「あ、終わってたんだ」と観客にも思わせる息のつかせかたが上手かった。バレーボールは繋ぐことだと言い続けた『ハイキュー!!』という作品の、もっとも望まれた音駒対烏野戦は、「繋げる」ことを主に掲げた音駒高校の、連綿と繋げられ流された血液を受け取る頭脳である研磨の、FPSかのごとき一人称視点で受け止められるのだ。それは、「繋ぐ」こと以外を忘れた視点だった。
本作を貫くモチーフはとうぜん「汗」であるのだが、汗をかく日向とかきたくない研磨の、どちらもが汗に沈みながら戦いを繰り広げ、そして黒尾は涙をこらえる。それまでの試合がそうだったように、まあ端的には常に性のモチーフなのだが、そこにおいて日向による最大の達成が描かれるのが本作だろう。それは「体液」に託して語られた。
また作品を貫く「繋ぐ」概念は、それまでに蒔かれていた種の発芽(日向のジャンプが急成長する、など)や、次の世代(「またやろう」や後輩たち、監督の交代)への引き継ぎが意識され続けていることにある(そこにおいて「思い出なんかいらん」を掲げていた稲荷崎高校の刹那性は作品随一の魅力を放つ)
作品の性質上、女性人気があるというのもあり本作も応援上映が企画されている。残念ながら参加できてはいないが確実に応援上映を呼び込む「セット」がされている。それは烏野音駒両者の応援団が第4の壁を破り、観客に向けて応援を呼びかける点である。これには驚いたとともに、機会があれば応援上映にも参加したい。スポーツ観戦と応援上映の違いについて書いたものでね……。
あまりまとまりがないのだが、観て考えたことはこのへんだった。地元校が沈んでしまって悲しい。梟谷〜〜〜〜〜。
ヨミ

ヨミ